Too good to be true or too true to be good.

木曜日は前日に引き続き巣鴨。20年来お世話になっている床屋へ。サッパリ。その後、一つ仕事を済ませて、FTCでお茶の水。ICU(国際基督教大学)の小田節子先生によるワークショップ。「LearnerからUserへ」という切り口で、基本的なスタンスは私とは対極なのだが、今の英語教育を考えるヒントをたくさんもらえて充実した会だった。次回の1月25日が自分の発表なので、ご挨拶がてら懇親会も少しだけおじゃまして帰宅。
23日の英授研例会で授業研究の司会を務めるのだが、「ビデオ」を見ての授業研究というものは、いったいどのような意義があるのだろうか?自明と思われているこの部分にもっと光を当てておきたいと思うのである。
典型的な授業研究といえば、まず思いつくのは語研(語学教育研究所)の授業研究だろう。授業そのものの分析項目の精緻化だけではなく、ビデオだけでは分からない授業の背景を理解するのに「授業分析・資料シート」を定型化している。この「授業の背景をきちんと確認し、その授業の位置づけを明確にする」という視点は重要なのだが、極端な話をすると、「では1年間その先生の授業を見続けなければならないではないか」、とか、「いや、3年間の流れの中で考えなければ」、と収拾がつかなくなる恐れも多分に含んでいるのだ。1回の授業観察での有効性と限界をわきまえておくことは大切である。
ELEC同友会でも「ビデオによる授業研究」を長年行っているが、研究授業の定型があるわけではなく、「45分乃至50分の授業の1コマを編集なしで丸ごと見せる」ということが共通しているだけである。それに対して、英授研では授業のハイライトを約30分に編集して、それに基づく研究協議を行うというもの。それぞれの研究協議の方法に持ち味があるはずである。
ではこのような授業研究の参加者は何を求めているのだろうか?語研に行く人と、ELEC同友会に行く人と、英授研に行く人では、異なる目的を持って参加しているだろうか?
例えば、「教師」に着目する人もいるだろう。
・ 田尻悟郎、稲岡章代、中嶋洋一、本多敏幸、蒔田守など達人の授業を見て、その「技」を盗む。→では、その「技」とは具体的に何か?指導技術と一口に言うが、10年、20年かけて達人が磨いてきた「技」を、2時間程度の研究協議で学べるものなのだろうか?
・ 自分が担当している「科目」の授業を見ることで、「明日の授業で使えるアイデア、小ネタ」を仕入れる。→その先生の授業で「効果的」「適切」だったアイデアや小ネタが、自分の授業でも有効であるとなぜ言えるのか?それほどまでに普遍的な指導理念・指導技術ということなのか?
・ teacher talkやoral introduction/interactionの英語を分析して教師としての「英語運用力」を磨く。→ planned talk; prepared speechそのものをいくら観察しても、「運用力」はわからないのではないか?むしろ、corrective feedbackやrecast; reformulationの英語を観察することに、教師としての気づきを促す可能性があるのではないか?

生徒側に視点を置くのであれば、次のような事柄をどうとらえているだろうか?
・ 生徒の練習時の発話、自発的な発話の量と質を分析し、学習事項の理解と定着を推測する。→もっともな視点なのだが、「練習の種類・形態」が様々であれば、それぞれの目的は異なり分析の基準も変わってくるのではないか?発話時間、発話での使用総語数、異なり語数、T-unit数、error-free T-unit 数などと計量化を考えると、どんどん授業のダイナミズムから遠ざかってしまうのではないのか?
・ クラス全体での活動、ペアや少人数グループでの活動、個人での活動にどのように取り組んでいるかを見る。→生徒の「活動」がlearningの要素の強い活動なのか、usingの要素の強い活動なのかによって、視点も変わってくるのではないか?「どのように」の部分を分析する必要はないのか?誰に対してその言葉を用いているのか・働きかけているのかが明確な活動となっているか?活動が成立していると同時に、学びも成立しているか?活動の活発さだけに目を奪われていないか?
・ 生徒の表情を見て、授業を楽しんでいるか、生き生きしているか、のびのびしているかを見る。→板倉聖宣はかつて「楽しいし力のつく授業」「楽しいが力のつかない授業」「楽しくないけど力のつく授業」「楽しくないし力もつかない授業」の4つを、「良い授業」の順番に並べてみる、と問うたわけだが、「定性的」な観点の持つ危うさを自覚しているか?
・ 授業に集中できていない生徒がいないか、積極的に参加できていない生徒がいないかを見る。→態度・意欲を観察することの難しさをどうとらえるか?

1回の授業をビデオで見てそこから何を学ぶか、難しさを感じてもらえただろうか?
『英語教育』1996年9月増刊号での特集は「より良い英語授業のための技術と工夫」であった。10年前の英語教育界のhot issuesを振り返って今日のブログを閉じたいと思う。
昭和8年の「福島プラン」の成果を紹介している伊村元道氏。

  • これはこの後長く続くこれぞ名人芸、授業実演の模範として人々の記憶に残ったが、これだけの成果を上げるには教師の側での大変な研鑽とプリント作りやショート・テストの採点などの労力があったことを忘れてはならない。当時32歳だった磯尾は良い意味でのワンマンで、自ら範を垂れるという形で部下を強引に引っ張っていったようだが、かなり無理もあったと見えて、清水は大会の翌月には病気で休職してしまうし、その他のスタッフも次々にいなくなってしまい、4年後に磯尾自身が去ると後は火の消えたようになってしまったという。名人の知恵はやはり皆で少しずつ分け持った方がいい。(後略)(p. 7, 「『名人芸』 見せる授業の今昔」)

続いて土屋澄男氏。

  • 名人芸の極意は、授業において、生徒を創造的活動に参加させることである。それにはまず教師自身が創造的な過程を経験することが必要である。(中略)子どもは一台のおもちゃのロケットで何時間でも遊ぶことができる。彼は自分の創造する内的イメージの世界の中で活動するのである。英語の授業においても、生徒にそのような楽しさを味わってもらいたいものである。本当の名人とはそういう楽しさを生徒に味わわせる芸を身につけている人だと思う。(p. 9, 「英語授業で『名人芸』といえる条件」)

特集の最後を飾る斎藤栄二氏。

  • ひとことで言うと、近頃の教師は生徒に対して少々やさしすぎるのではなかろうか。授業を楽しくしたいと言う。それも大切なことには違いない。しかし楽しいとは何なのか。たとえば落語を聞けば楽しい。しかし毎日毎日落語を何時間も聞かされたらどういうことになるか。人によっては苦行となることもあろう。どうもそういうことではないはずだ。綿菓子を与え続けるような動機付けは長続きはしない。今私の考えているのは次の2つである。(1) 作業をさせる。 (2) ある程度の強制を覚悟する。(中略)今ここで考えているのは、どうにもならない生徒にも、自分が参加できる場所を英語の授業の中に準備しておいてやることはできるということを言っているのである。そのためには、「どんなことがあってもこれだけは覚えよ」という教師からの強制も必要だと考える。(後略)(p.57, 「『英語』に対する興味・関心を生徒にどう与えるか」)

本日のBGM: Total Recall (The Beatniks = 高橋幸宏&鈴木慶一)