またまた「紋切り型を超えて」

三省堂のサイトで、高校英語教育に関するリレー式のエッセイが掲載されている。教科書の著者などの関係者ではあるのだろうが、色んな人が色んなことを言うので、時々眺めている。連休後に更新されて、池野修氏のエッセイが載っていた。(http://tb.sanseido.co.jp/english/column/relay.html
紋切り型の極地。
一部を抜粋する(誤解を避けるために全文は上掲のアドレスからご覧いただきたい)。

  • 必要とされるのは,教師による説明を減らし,生徒が主体的に取り組む作業の比重を増やすことである。具体的には,必要以上に詳細な文法説明や全訳などをなくし(必要に応じて部分訳などを行う),基礎力を養うトレーニングとしての音読活動,自己表現活動,ペアやグループによる教え合い活動などの時間を増やすことである。
  • 技能養成の身近な例として,運動部の指導を考えてみよう。例えばテニス部の顧問は,生徒にどのような指導を行うだろうか。戦術の講義もあるだろうが,時間の大半は生徒に実際にプレーさせたり,あるいは基礎練習としての素振り等を行わせるのではないだろうか。純粋な比較はできないとしても,英語の授業でも,インストラクター(教師)の説明を聞くことよりも,生徒がさまざまな活動に取り組む時間がもっと必要なはずである。

この人は運動部の顧問やスポーツのコーチをやったことがある人なのだろうか?私も語学学習をスポーツに例えることがあるが、その場合には極力「学校体育の授業」に例えるようにしている(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050821)。この違いは重要であり、部活動での運動の指導と平常の英語の授業での技能指導とを同一に語るのは間違いであると言っておく。洞察は得られるかもしれないが、決して同一のものではない。問題は、「英語学習・英語習得における技能の発達段階・習熟の度合い」が学習者はもちろん教授者にも見えない中、言語材料や言語の機能、現実の使用場面のみを突きつけられている教室現場の状況にある。「基礎練習としての素振り」にあたるものは「音読」なのか?「戦術の講義」にあたるものが「文法解説」なのか?では「語彙」は?「意味」は?「発音」は?
このブログでも再三紹介している福岡県の香住丘高校 (http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2006/sp/selhi_database/detail/kyushu_okinawa/fukuoka/051/051.html)でまとめられたcan do listのような研究成果をたたき台として全国の高校の指導者が「どのような技能を身につけるのに、どのような指導が必要・有効・適切なのか」という具体的な方法論を共有することこそが重要なのである。理念からではなく、個々の事例からこそ気づきは得られる。
池野氏はエッセイの最後をこう結んでいる。

  • 教科書に含まれる優れた題材,あるいは自分で準備したオリジナル素材をうまく利用して,生徒に「伝えたい・書きたい」という気持ちを引き起こし,自己表現活動に発展させたい。教科書題材を単なる「文法解説と訳出の対象」として扱わないようにしたい。英語の「習得(定着)」だけではなく,英語を用いた「表現」や「他者との関わり合い」にも目を向けるようにしたい。そうすれば,高校の英語教育(授業)は,単なる進学や就職のための手段ではなく,それ自体が生徒にとって意味のある文化的実践になるであろう。

もういいかげんに「自己表現活動」を目標にして、「英語力」から目を背けるのはやめにしてもらいたい。なぜ、多くの英語教育関係者は「自己表現活動」を目標に据えたがるのだろうか?ためしに、あるテーマ、トピックに関していきなり「自己表現活動」をさせてみたらいいのだ。あまりのお粗末さに目も当てられないだろう。だったらそこを学びのスタート地点に据えてみたらどうなのだろう?何を言って良いのかわからない、何を書いて良いのか分からない、という地点から英文を読む、聞く、お互いの理解を摺り合わせ、自分よりも少し上の英語力を持つ学習者の発話に目を向けるというときに、語彙と文法は避けて通れないではないか。「何でそんなことをするのかがわからない」という生徒の多くは「英語力」が劣っているがために意欲が湧かないのではないのか?英語教師は、英文和訳以外に「腑に落ちる」理解をどう促すか(百歩譲って、曖昧さに耐えることが重要だと説くのであれば、どの程度の理解があれば致命傷にならないのかまで教えなければならないだろう)、初出の文法事項は理解の段階から定着の段階そして自発的な表現に使えるまでの段階をどう経ていくのか、ということに関して苦労しているのである。高校英語教室の直面している問題は、自己表現にすり替えたくらいでは解決し得ない。高校レベルの英語素材での内容理解を確かめる方法、学習者の視点に立った文法解説と体系を作る手助けとなるメタ言語的な考え方、次から次に出てくる新出語句をきちんと覚える方法などに対して、多くの誠実な高校英語教師は正面から向き合っていることと思う。
時には本気で怒った方がよい。