「ぞうさんが好きです。でもキリンさんはもっと好きです。」

tmrowing2007-03-03

父の見舞いで実家に帰っていました。暖冬とはいえ朝の気温はマイナス10度。それに比べれば東京は暖かい。
今年の「フォーラム」はビッグサイトで開催。模擬授業はSELHiである広島市立舟入高校の1年生。会場でA先生、T先生に遭遇。
英語 I の授業なのだが、スピーキングの「流暢さ」に主眼を置くというか、ひたすら「流暢であること」を志向する活動で成り立っている授業。みんな自信たっぷりによくしゃべる。私の授業とは正反対だ。
1分間で何語しゃべったかをペアでカウントする「モノローグ」の活動が特徴といえば特徴だろうか。毎回発語数を記録するのはいいのだが、せわしないのだなぁ。例えば60語よりも100語の方が優れているという根拠として「発語数」=「流暢さ指標」ととらえているようだ。
資料の中で、自校の取り組みを検証し、

  • 「流暢さ」が明らかに向上しているのに対して、発話内容の「適切さ(ロジック)」の向上は十分ではない。この点については、今後あらゆる教育活動を通じて、思考力と感受性を充分に育成することが求められる。

と言っているのだが、これは欲張り過ぎというものだろう。
「発話内容」つまり、発話の質的向上を図るのであれば、繰り返しや、言い淀みなどを除いた異なり語数をカウントするなど、記録やフィードバックの方法を変える必要がでてくるだろう。となれば、記録係も意味と形式の双方に注意を向けて聞かざるを得ないので、ただ聞こえた語の数を数えるという単純な記録では済まなくなる。この活動のグランドデザインの段階で、「ひたすら発語数を増やすことでやる気と自信を持たせる」、という考えがあったのなら、「ロジック」だの「正確さ」だのを気にすること自体が間違いだろう。この後の分科会で文科省の誰かが、「インタラクションになっていますかね?」と苦言を呈していたが、「モノローグ」にインタラクションを求めること自体が無い物ねだりなのだ。本気で「発話の質的向上」を求めるなら、モノローグの音声を記録して分析することを考えるしかないだろう。ペアワークで発話をカセットに録音するのは筑波大付属中などではずっとやっていることだ。SELHiで年間300万円の予算が付くのなら、一人一台ICレコーダーを購入することくらいわけないのでは?
意見の分かれる論題で意見を言う、という活動での留意点は、「テーマの社会性」を安易に利用しないことである。今回の授業では、トマトと人間の相違点を考えることで、自己実現の可能性についての理解を促すという狙いがあったようなのだが、「トマトにもできること」「人間にしかできないこと」を考える中では、論理的な思考力とか、哲学的・倫理的な言説を引き出すところまでは到達し得ないだろう。教科書の本文が非常に表層的な文章なので、このインプットをもっと豊かなものにしない限り、ナイーブな発話、「紋切り型」の思考しか出てこない。でも、この段階ではこれでいいのだ。英語 Iの指導においては「質的向上」をひとまず脇におくことで、「量(=発語数)」の向上が達成されているのだ、という部分をpositiveに評価するので充分だろう。
最後に、以前からいろいろなところで紹介されている、この高校独自の「WSAテスト」というものは、資料を読む限りでは正直よく分からない。関係者、詳しい方よりの情報を求む。会場を後にする時に緑川先生をお見かけしたのでご挨拶。
分科会はSELHiの指導事例の紹介。県立千葉女子の向後先生の発表に関連して質問をひとつと、文科省に苦言をひとつ述べてきた。

  • オーラルサマリーでの生徒の発話を記録しているのか?
  • SELHiが拡がり、Input/ Intake/ Outputという「一連の」用語が頻繁に聞かれるようになったが、高校レベルの言語材料で授業を行うときに、そう簡単にIntakeは起こらないのではないのか。英語でパラフレーズしたり、サマリーをさせるときに、よくできた生徒の発話を聞かせたり、一例を訂正・修正したりして提示するだけでは、教室の残り39名の中には、自分の発話がいったい英語としてどうなのかの自己評価ができないために、もどかしいまま授業を重ねていくとか、いつまでも自信が持てないという者も出てくるだろう。そのような生徒に対しても適切なフィードバックを与えるためには、音声を記録して分析することが必要なのではないか。また、SELHiのデータベース整備は文科省自体では行わずベネッセに委託している現状だが、SELHiの各校での様々な生徒の発話がアーカイブとして、コーパスのような形で整理され、全国のどこからでもアクセスできるような取り組みがあってこそ、後発の学校に勇気を与えられるのではないか。

という二点。この高校ではGTECの「ライティング」のスコアがほとんど伸びていないのだが、その背景に何があるのかを探りたかったので、その部分は向後先生の回答でよくわかった。二つ目の文科省への苦言に関しては、的はずれな回答。文科省の某にコメントをしていただいたのだが、「高校の教員はリサーチャーではない。応用言語学の用語が氾濫しすぎている。上滑りなものではいけない。」という本人が、「accuracy, fluencyに加えて、complexityという考えもある」だとか「文科省は文法を否定していません。Overlearningによって使いこなせるレベルまで到達させていないのが問題。」とか、用語を乱発しているのだなぁ。他の方のした、評価基準についての質問(要望?)に関する回答も、まったく現場の切実さとか温度を感じ取れていないものであった。こういう人に統括されているから、うまくいかないんじゃないのかと訝しく思った。
ポスターセッションのコーナーでは、長野高校の東谷先生にご挨拶と新年度の去就のご報告。ポスターセッションというと聞こえはいいが、狭いスペースに多くの学校が入っていて、研究紀要や報告書、DVDなどを配布するので終わってしまうケースが多い。本当は、こういう実践の報告と共有を会場をとって行うべきなのだ。帰りがけに、上智大の吉田研作先生にもご挨拶&ご報告。
概して今日のフォーラムよりは、昨日の ”Can-do statements” 三姉妹の話の方が刺激的だったなぁ。
GTEC Writing Trainingの新しいパンフレットが完成。田尻悟郎先生の見開きページに続いて、私の見開きページ。いい記念になった。セルハイでなくとも、3か月頑張れば、GTECのライティングのスコアも急上昇するようになると思いますよ。大学の新入生に使わせようというところも出て来た模様。類書、類似製品がないので、使えばその効果が分かるんだけどねぇ。まだまだ普及には時間がかかるのだろう。
帰宅して、『大当り狸御殿』を録画。美空ひばりと雪村いづみの主演。1958年作品。ミュージカル仕立てで音楽が松井八郎なのだ。親戚でも何でもないのだが…。雛祭りに相応しい華やかな歌と踊り。この当時の宝塚の勢いを感じた。雛祭りで思い出したが、前任校は今日が卒業式。自分の関わった生徒もこれで全て卒業となる。いろんな意味で区切りの年となったなぁ。
本日のBGM: 恋は桃色(矢野顕子)