借りてきた猫 の手?

土曜日は朝から本業。寒かったです。昼過ぎに帰宅し、飯も食わずに午後はパーマー章受賞者でもある稲岡章代先生のお話を聞きに英授研へ。
視聴覚機器のトラブルで、研究発表の順番に変更があり、先にお話を聞いて、その後別の方の研究授業を見ることに。昭和女子大のOCで教えていた学生も来ていました。熱心なのはいいことです。
第一部は稲岡氏の20代と思しき教師姿もビデオで拝見でき、楽しめましたが、その後の第二部、中学校の先生の授業を見て、カリスマ教師の影響力は大きいなぁとかなり考えさせられた。活動のほとんどをカリスマ教師といわれる教師たちの実践から拝借しているのであった。私が気になるのは、次のような点が解消されないまま、活動先行・活動主体で授業が進んでいるのではないかということ。
中学1年の授業であるが、板書が小さい
活動を盛り込みすぎて、じっくりと考えたり、しつこく繰り返したりが少ない
文法事項の導入と定着に関しての熟慮が見えない
自己表現を急ぎすぎるため、品詞、文型、語順とは無関係に語彙を与えている

  • 先ず、板書。中1の1月の授業であるから、文字は充分に練習済みである。模造紙と思しき白い紙に色ペンで書いているのが不思議だった。後で切り離して、カードにするのかと思ったがそれもなし。本当に必要な語彙なのか?と自問してみることも大切。
  • 活動盛りだくさんに関しては、チャンクを小さく分ける意味では理解できる。「中学生相手だと、集中力が持たないから、5分くらいのチャンクで」と私の恩師もよく言っていた。私自身も20代の頃はやりたいことがたくさんあって、実践というよりは実験をして、多くの企画が倒れたものだ。ただ、教科書で扱うテーマ、またその授業の目的を考えた時に、そんなに多種多様な活動を盛り込まないと達成できない主題や目標なのか、と思う。中1ですよ。欲張りすぎではないのか?先月FTCでもデモを見せてくれた、久保野りえ先生の授業(哲学?)とは対照的と言えるだろう。
  • 文法事項の導入と定着は唯一絶対の方法などなく、深く難しいテーマであるが、中学ではそこから逃げるわけにはいかない。活動の指示など教室英語を駆使するこの先生も文法の説明は日本語を使用していた。授業中の説明の中で「日本語で音楽ができる、というけどI can music.はダメ、英語ができるという時もI can English.はダメ、必ず動詞の前につける」というようなことをいっていたのだが、大丈夫か?助動詞canの導入で、この教科書は疑問文から始まるのである。当然、Can you...?で質問されたら、その質問に答えることになるわけですね。ですから、Yes, I can. / No, I can't.は同じセクションに出てくるのですが、肯定文のcanは次のセクションに出てくるため、教科書のダイアログでは、
  • Can you see the people in the water?
  • No, I can’t. Where?
  • Over there.
  • Oh, I see them.
  • というように、そのセクションでは肯定文のcanの使用を意図的に避けているわけです。にもかかわらず、自己表現活動と称して、最後はWhat am I?的なクイズを作らせている。「教科書は疑問文から始まっているが、肯定文はこれよりも前の課に出てくるのか、それともこれ以降に出てくるのか?」と質問したのだが、たまたま、指導助言者がこの教科書の著者でもあり、疑問文を先に導入する意図を答えてくれた。しかしながら、助動詞と一口に言うのは危うい考え方である。一般動詞過去形のdid/didn’tは肯定文では「動詞の過去形」になるので、表面上どこにもdidは見えないのである。法助動詞(時制に関わるwillも)の場合には、肯定文でもちゃんとあるのである。だから「動詞の前につける」とか「動詞の前に置く」という説明で大丈夫なのか?本当に分かったことになるのか?と心配になるのである。(お前に心配してもらう筋合いではない、といわれればそれまでだが…。)
  • 中1ではとにかく、導入していろいろやらせて、間違って覚えていても、中2、中3でそれに気が付いて、その時に本当に学んでくれればいい、と本気で考えているのだとしたら少し危険ではないか。入門期では、名詞・動詞が同形の語が多い。この教科書の1課から7課までですでに導入し終えた動詞は実際どうなのか?教科書以外でも、これまでに1分間会話、と称して取り組ませた活動で生徒が記録した発話の中で充分使えている動詞にはどんなものがあるのか?ということを考えて、類推やコントラストを利用するような教材研究に取り組めば、もっと授業の中で腑に落ちる生徒が増えるのではないかと思う。自己表現を急がず、もっと丁寧に、またはしつこく、時には生徒ができなくて臍をかむくらいでもいいのではないか?

英語教師を志す学生が実践から学ぶのはいいことだとは思うが、何をどう見るかまではなかなか指導できないものだ。「生徒の発話を促す時に、はい、とか日本語を使っているのはどうしてか?」という質問をした早稲田大学の学生は、指導助言者から「あなたはどうするのがいいと思うか?」と切り替えされて、「英語として自然に、Come on everybody. Repeat after me.などというのがいい。」などと答えて墓穴を掘っていた。自業自得である。
この手の研究会では、「この先生の授業の素晴らしいところは…」などと手放しで褒めちぎる人が必ずいて、ややもするとファン感謝デーみたいな空気になってしまうのが心配である。Healthy tensionがないとダメでしょう?
第一部の稲岡先生の質疑応答で、挙手したにもかかわらず時間の都合で許されなかった質問を最後に。
「中学校で、これだけ豊かな英語の授業ができ、生徒一人一人が育っていくわけですが、その先に待ちかまえている高校は多種多様です。その高校の先生方に、これだけは言っておきたい、というのがあればきかせて下さい。」