詩人、吠える

「英語ができる」とはどういうことかを考える時、母語としてできるのか、第二言語としてできるのか、外国語としてできるのかという観点を入れてしまうと途端に難しくなる。
この難しさは、「日本語ができる」というのはどういうことか?というパラレルな問いを立ててみると容易に理解できるだろう。「母語として日本語ができる人」という時、自分の身近で具体的な人を何人思い起こせるだろうか?
漢字検定1級の人?国語の先生?小説家?脚本家や劇作家?評論家?新聞の論説委員?NHKのアナウンサー?政治家?それとも詩人?
その人によっていろいろなイメージが浮かぶだろうが、よほどのことがない限り、ビジネスマン(←日本語の意味でね)とは思わないのではないだろうか?「ビジネスマンは日本語を駆使しているので日本語に堪能である」とか「ビジネスにおける日本語はミスが許されない厳しいものであり、高い日本語の能力を要求される」と考える人は、小説家が小説を書く時よりも、編集者と打ち合わせをする時の方が高い能力を発揮していると考えるだろうか?打ち合わせで発揮される言語能力は高い・低いではなく、別の能力というべきだろう。
世間的にいって、日本人は世界の中でも相当に英語ができない部類に入ると思われている。では日本人は日本語がどの程度できるのだろうか?自分の日本語力を規準として、それよりも上の人、下の人を一人ずつあげられるだろうか?
ことほど左様に「できる論」は難しいのである。漢字検定はあるが、日本語母語話者検定はない。そりゃそうだ、国語なのだから。でも学力としての国語力はそのまま日本語力なのか?
議論が単純ではないことが分かってもらえるだろうか?地に足がついて、新たな地平へと突き抜ける議論のためには、まずもって言語教育としての国語教育に頑張ってもらわねば困るのである。そのうち、ACTFLのレベル分けを日本語母語話者にもあてはめて日本語力を測定し出すのではないかと心配である。
来月に予定されている「英語が使える日本人云々…」のフォーラムは一日がかりの大きなイベントなのだが、トリを飾る講演者がNHKのアナウンサー。『英語でしゃべらナイト』の担当者だそうである。どうにかして欲しい。
『英語教育』3月号のクエスチョンボックスで、八木克正氏(関西学院大)の回答で、村井&メドレーの英作文のテキストを「実際に読んだことがない」と断ったうえで今日的価値を全く認めていなかったのにはビックリ。何がビックリって、60代位の人なら普通に目にしているはずだと思っていたから。初版はともかく、これだけ版を重ねたテキストなのだから、「読んだことがない」というのは、推測するに、八木氏は古いものに対して学習者としても研究者としても興味を持つことがないまま語法を極め、英語語法文法学会会長にまでなられた方なのだろうか?さすが語法の鉄人というべきか。
神保町で書店をぶらついて数冊購入。

  • Monty Python's Flying Circus Just The Words (Methuen; 1999)
  • 諸橋轍次『十二支物語』(大修館書店;1968年)
  • 飯島耕一『漱石の<明>、漱石の<暗>』(みすず書房;2005年)
  • 伊達得夫『詩人たち ユリイカ抄』(平凡社ライブラリー;2005年)

モンティ・パイソンは同僚のK先生に教えてもらってDVDを入手したばかりだったので、これでスクリプトも揃ったことになる。諸橋氏のこの本は、『縮写版大漢和』(大修館)の月報を1冊にまとめたもの。編集者との対談の形式をとってはいるが、諸橋氏の蘊蓄の嵐とでも言えばいいだろうか。300円はお買い得と言えるだろう。伊達得夫は伝説といわれるだけあると実感。
飯島耕一の著作は私がフランス語や文化に疎いためか、私のみすず書房に対する先入観が禍してか、難解でなかなか馴染めないことが多いのだが、今回は別。終盤に収録の「若い詩人たち、俳人たちよ、もっと怒れ」はとりわけ面白かった。高橋源一郎は「読むに堪えない低レベルの小説」家、「エラソウなことを口に」する加藤典洋、とばっさり斬った後に、その刃は島田雅彦に向けられた。

  • 島田は駄目だ。第一に文章がよくない。島田雅彦は次のような蕪雑なことを言って、ろくろく現在の詩も読んでいないに決まっているのに詩を愚弄した。「詩はなくなったわけではない。ないのは現代詩の業界の話だ」。そしてここに詩があるとして「新潮」に今も連載されている詩をめぐるゴミのようなヨタ話を賞賛した。

飯島耕一、75歳。私の父とほぼ同年齢である。怒らせると怖いのである。