餅は餅屋?紺屋の白袴?

先日の語研大会での久埜先生の発言がずっと気になっている。
(→http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061029
私は児童英語という形で学校教育の外で行われる活動については関知しないが、小学校の授業の中で行う「英語活動」「英語授業」を考えたときに、授業の主役は「小学校の教師(教諭・講師)」であると考えている。なぜなら、小学校での教育は「教育」の専門家でなければうまくいかないからである。
必修化推進派の中には、

  • 「小学校の学級担任はお膳立てをして、クラスルームマネジメントだけしてくれればいいから、英語を使う・英語を教えるのは専門家に任せて!」

などという暴論を吐く人がいる。
小学校での教育の難しさは、中高の比ではなく、高度に専門的な資質・力量を問われる。何故、小学校の教師は総合力を問われるのかをここで今一度考える必要があるだろう。6歳から12歳までの多様な発達段階の児童の成長に大きな影響を与える小学校教師は「教育のプロ」である。児童心理学、教育学といった理論や知識だけでなく、朝は7時8時から午後は5時、6時まで、児童と時間を共にする経験が教師を育てていく。安易な「ふれあい」などという用語でごまかしたくはないが、この朝から夕まで、というのは重要である。近年では専科での採用も増えていると聞くが、複数の教科や課外活動を教えることで、個々の児童の得手不得手、異なる場面での児童同士の人間関係・対人スキル、下世話な言葉で言えば「うらおもて」を観察し指導していくことが重要なのである。高度な力量を問われ、雑事に翻弄され、さらには保護者・地域社会の要望に応えることを要求される。そういう小学校担任に対して「英語の指導は専門家に任せて」という、風潮がどうにも解せない。
昨日も某民法ニュースでの特集で、小学校の取材が放送されていた。その学校の先生方に「英語を教えることに自信のある先生、手を挙げてください」と尋ねるのである。挙手をされた方は、1名。そりゃそうだろう。いや、何も、「では、国語、算数、理科、社会、音楽…」と聞いていかないとバランスが取れない、といいたいのではない。そんなこといったら「子育てに自信のあるお母さん、お父さん、手を挙げてください」と聞くのと同じになってしまうから。でも、自信はなくたって、お父さん、お母さんは子育てに責任をもってりっぱにやってますよね?では、

  • 「今の時代は、日本だって英語子育てが必要だから、来年から、あなたのうちに英語子育ての専門家が来ます。心配しないで、英語子育ては専門家に任せて」

といわれて納得する親はどのくらいいるだろうか?
我々は、むしろ、現場の小学校の先生から、教育とは何なのか、人を育てるとは何なのかを学ぶ必要があるのではないのか?
久埜先生の話を聞いて、私が感じたのはそういうことなのだと思う。
本日のBGM: タイムマシンにおねがい・2006 Version(サディスティック・ミカ・バンド)