「英語で表現できない」人間は、英語が読めていないのか?

高2はスピーチ第一ラウンド開始。Moderatorの仕切の巧拙が結構でていた。まあ、第一回なので、これ以降のグループに期待。Map / web とquestionsがワークシートには出ているので、先読みをすれば、内容の予測が可能だということは指導したので、内容理解そのものは簡単。ただ、初見(初聞?)のスピーチの英語そのものをretainするのは結構大変です。まして、メモを元にパラフレーズやサマリーをするのはもっと大変。3学期までの険しい道のりです。「ノリノリ」というわけにはいきません。
高3ライティングは「コロケーション」に特化したワークシートを作成。九州大学出版局から出ていた九州大学大学院言語文化研究院英語共通教科書編集委員会編による「共通教科書」の初版から、共起制限にかかわるマトリクスを引用して考察・理解の手助けとしてみた。このテキストは現在は改訂され、読解用の英文が削除されてしまっているようだが、初版は初版としてよくできたテキストである。(徳見 道夫先生のサイトで編集執筆の背景が語られています。http://www5a.biglobe.ne.jp/~tokumi/kyoukasho.htm )
さて、『英語青年』7月号で掲載された靜氏の柳田氏への反論を読んでの感想を。
英語の長文を読んでどのような解答を求めるのかを検討する際のマトリクスで靜氏は6通りの可能性を指摘しているのだが、その部分で腑に落ちないことがある。

  • 英文を要約させる   → 1 母語で  vs. 2 英語で
  • 意味をそのまま書かせる→ 3 母語で  vs. 4 英語で 
  • より詳細に説明させる → 5 母語で  vs. 6 英語で

という分類で、 3=和訳 と4=英語でのパラフレーズ では等価なパラレルなものが得られるのだろうか?英和辞典での記述で「訳語」を読む場合と、英英辞典(モノリンガル辞書)での定義を読む場合とは等価な理解と言えるのだろうか?また、たとえば、母語における読解を考えてみてほしい。日本語を母語(国語でもよい)として使用する者が、日本語の文章を読んで、その意味をそのまま書け、といわれたときに、パラフレーズするだろうか?私なら、「そのままってどういうことですか?」と問い返すだろう。
母語としての読みにおいては、「意味をそのまま言わせる・書かせる」方法が限りなく貧弱で、頼りないものであり、ほとんどの場合は「つまり」「すなわち」「たとえば」「言ってみれば」など言い換えやさらなる例示による「説明」になっているのではないのか?その頼りなさを補う有効な手段として和訳は活用されてきたし、現在も活用されているのではないのか。だからこそ、外国語を学ぶことによって母語「そのもの」の理解が深まるともいえるのではないだろうか?奇しくも、靜氏自身、4.の望ましさに関しては、2と6に比べて1段階低い評価をしているのである。
私の考えるマトリクスは、
要約させる  

  • 7 現在読んでいる英語よりも、文構造・語彙の易しい英語で      
  • 8 現在読んでいる英語よりも、文構造・語彙の成熟した英語で

意味をそのまま書かせる

  • 9 現在読んでいる英語と、ほぼ等価な同意の英語でパラフレーズ       

より詳細に説明させる

  • 10 現在読んでいる英語よりも文構造・語彙の易しい英語を用いて英英辞典的な定義・説明で

とでもいうようなものである。
9が難しく、理解の確認の手段としては貧弱であるから、10を主に用いることになるだろう。その後で「それを一言で言ったら?」と7,または8で確認する。では、その段階で、そのどの活動でもうまくできなかった学習者にはどう手当をするのか?どのような手順で、その作業をサポートするのか?と考えた場合に、「日本語」での意味の記述(3)と説明(5)は極めて有効であろう。
繰り返しになるが、私が気にしているのは「英語で表現できる能力」があるかないかではなくて、「読んだ英語がわかっているのかどうか」である。英語の表現力の養成はライティングの時間に任せてしまったときに、では「読み」の時間では何をもって「理解そのもの」をチェックするのか?4.の方法が貧弱であることを踏まえて、その代替案を具体化し現実化する必要性は高いと思われる。