”I think I want to try harder.”

7月15日の福岡ワークショップの打ち合わせにB社新オフィスへ。どうも高い所は苦手だ。約3時間にわたり、思惑を語り、担当者と意見交換。「見えてきた」ということなので、良い方向に進んでいるのではないでしょうか?詳細が決まれば報告します。
その前に、6月17日の英授研があるのだが、おかげで色々なものがクリアーになってきた。8月の英授研全国大会は東京(筑波大附属駒場中高)で行われるのだが、そこでも提案者として参加することとなった。ホームグラウンドとも言えるELEC同友会の方は11月。今年のライティング研究部会は「大学入試問題」を正面から扱う予定です。「大学への入り口から高校の出口を見る」ような企画になるでしょうか?久々に私がメインです。
そんなこんなの合間を縫って、中間考査完成。今回は二コマとも前半の試験日程なので提出が早く結構大変だった。昨年度にも増して事務方のチェック体制が強化されるらしい。成績処理もまた煩雑になるのだろうか?
通勤の電車で、片岡義男『自分と自分以外 戦後60年と今』(NHKブックス;2004年)を読む。
入試のことを考えていたので「『がんばる』とはなにだったか」(pp.106-108)を興味深く読んだ。

  • そのスタート地点から、「がんばる」はこんなふうに他律的そして受動的だ。
  • 「がんばれ」と言ったそのとき早くも、そう言った人たちは、「がんばる」当人との関係をすっぱりと絶っている。「がんばれ」という言葉は、じつは酷薄な言葉なのだ。
  • 多数によって求められ、多数によって評価される、多数に共通するひとまずの成果。「がんばった」結果とは、じつはきわめて凡庸なものなのではないか。人なみの次元に届くこと。人なみという枠の中に収まること。「がんばった」結果とはこれであり、典型は入学試験への合格だろう。独自の創造はしなくていいこと、それが「がんばる」ことなのだ。

後半の「『と思います』をめぐって」(pp.165-167) は片岡らしい分析。

  • 「私は作家になりたいと思います」という言いかたのなかにある、「と思います」の部分は少しは日本語がわかるという段階の英語世界の人たちには,なかなか理解しにくいようだ。
  • 自分とは、ほとんどすべてのことに関して、なにはともあれ、思う人なのだ。自分の中にある一番大事なものは、思いなのだ。思えばそれは自分のものとなり、思わなければ自分のものとはなりきらない。意思、決断、主張、判断、思考など、なにであれ、自分の思いの中を通過しないことには自分のものとはならない。

長い一日でした。明日もまた頑張りたいと思います。