Metaphors we are deceived by

今日は出校日ではなかったのだが、「英語俳句」のコンテストで入賞した賞状・賞品を届けてくれるというので学校で担当者の方をお待ちしていた。来週になってしまうと卒業式後だからなかなか生徒に連絡つけられないからね。今回は3位までには入れなかったが、1名入賞者を出したので、学校賞の賞状と盾もいただけることとなった。全国の高校での英語俳句の指導にあたられている先生の実践などを簡単に紹介したコメント集が一番の収穫。これを参考に来年度はさらに充実した指導をしてみたい。
さて、英語学習に限らず、学習に比喩はつきものである。ところが比喩は必ずしも真理を伝えないことを忘れてしまいがちである。以前このブログでも、「車の両輪」の比喩の誤謬は指摘したが、今回はその延長線(これも比喩ですね)にあると思われる話を。
何かで目にしただけなのでネタ元がはっきりしないが、「お灸を据える」という表現は日常で「懲罰を与える」意味で使われている。これに鍼灸に関わる団体が噛みついた(これも比喩ですね)というのだ。現実の鍼灸の世界では、「お灸」は治療目的で「据える」のだから、「あいつには一度お灸を据えてやらねばなるまい」などという表現は誤用であり、灸というものに関して誤解を招くものである、そのような誤用を助長することのないよう国語教育でしっかりと指導して欲しい、というようなことであったかと記憶している。そんなこと言われたら比喩表現は日常でほとんど使えなくなってしまうんじゃないのか、という印象を受けた。でも、実際問題として、比喩と簡単にくくってしまうけれど、その比喩によって何を主題として表しているのかがよく分からないものが多いのは事実である。

1.「英語漬けになる」というのだが、「英語に何を漬けているのか?」「漬ける前と漬けた後で何がどう変わるのか?」「何の目的で漬けるのか?」
2.「英語のシャワーを浴びる」というのだが、「水」とか「お湯」に当たる部分に「英語」を当てはめて何を表しているのか?「それまでに身についていた汗や汚れ」として何を想定しているのか?「母語の汚れを洗い落とすのか?」その場合の「汚れ」とは「母語から生まれる類推・干渉」か?「シャワー」ではなく、「英語の浴槽に浸かる」のではなぜダメなのか?

少々あざとい書き方だったが、結局の所、1.は「英語の成分を自分に染みこませるために、その中に入れてしばらくそのままにしておく」とでもいう意味であろうから、「英語の学習時間を増やす」「英語の使用時間を増やす」「日本語の使用に頼らず英語を使用せざるを得ない環境に自らを置く」ということを意図した比喩であろう。では、2.の「シャワー」の比喩は?と考えるとよく分からないのである。シャワーを浴びる目的は何なのだろうか?「爽快感」?「清潔感」?

英語学習について「世間」と対話を図るのであれば、比喩をいったん離れることで、ことの本質をもう一度確認することが大切である。