TM先渡し高校英語

ライティング部会1月例会終了。
またしても帰宅は日付が変わる。今回は、某SELHiの高校から先生をお招きして、ライティングの評価に関して熱く(?)語った。この高校では高1,高2,高3とそれぞれの発達段階で「何ができるようになるか」という能力・技能指標を多技能の統合も含めて構築中である。一覧を見せて頂いたが極めて意欲的なものであった。N先生の指導助言の賜とも言えるが、その助言をもとに作ってしまうこの高校の先生方もスゴイのである。昨年3月に行われたSELHi Forumは今年は無しになると聞きびっくり。理由は予算削減とのこと。文科省はアーカイブも作らない、フォーラムもやらないでは、いったい何を成果として「世間」にアピールしようと言うのか!今年は「英語が使える…」の催しを一日行い、その中の一企画として、SELHi校がポスターセッションをするらしいです。地味すぎるし、せっかくの研究成果がそれでは勿体ない。
O先生が「シャドーイングやサマリーライティングといった用語が乱用されている」と昨今の風潮を批判したので、皆で便乗して放談していた時に出てきたのが、「和訳先渡し」に関わるネタ。以前も、「英訳先渡しライティング」の話を書いたが、今回は「スクリプト先渡しリスニング」という対極概念が出てきた。そうやって考えてみると面白い。たとえば、クローズテストは読解力指標としても活用できるが、これをもし「英文原稿先渡しクローズ法」などという活動にしてしまった時、そこではいったい、どんな言語活動をしていることになるのか?Lower-order processingを強化し、automatizationへつながる指導です、などというつもりだろうか?
結局、「和訳先渡し…」の「…」に入るはずの言語活動が曖昧なまま、「余剰時間を活用した活動」を過大評価する事に問題があるのだろう。多くのfollowersが行っているのは「和訳先渡し『リーディング』」ではなく、「和訳先渡し『英語授業』」である、とでも言えば私の意図が伝わるだろうか?英文の読み込みが不十分なレベルに留まっているのに、その上に「自己表現」などを付け足して教師も生徒も満足されては困るのである!!やるなとは言わないが、それを「ライティングです」とは言わないで欲しい。
高知県で行われた実践の助言者である東京学芸大の金谷憲教授はかねてより、教室で扱う英語の「量」を増やすことを唱えていたので、意図はよく分かる。しかしながら、和訳先渡しをしてまでexposureを増やしたいのであれば、一日も早く英和対訳教科書を作ってもらってそれを採用すればいいのだ。常に新出事項が一定の割合含まれているのが検定教科書というものなのだから、そこを放置しておいて、小手先のワザを磨いても根本的な解決にはならないだろう。生徒に訳させるのは時間の無駄だが、理解のために訳を配るのはいい、という理屈が全く持ってわからない。いっそのこと、生徒全員に教師用指導書 (Teachers' Manual) を配ってはどうだろうか?