「ハートで感じる英文法」の喧噪に思う

文化人類学者のフィールドワークの寓話にこんなものがある。大学2年の時に聞いた話。
彼らは名詞の単数・複数・双数・両数などの識別や家族の成員を表す名詞の属性や性別の使い分けなどを実地調査することでその言語に於けるcategorizationの仮説を立てたりするわけだが、ある民族を調査している時に、「これを何というのか?」とモノを指さして尋ねたところ、全て同じ答えが返ってきた。「これは、新発見か?」と思いきや、相手の言っていたのは『それはあなたの人差し指です』という言葉であった。
また、こんな話もある、日本語では前途洋々などの「空間や方向」の比喩を用いた表現を使うが、ある言語では「未来は常に自分の背面にある」というのである。現在は見えるが、未来は見えないから、というのが彼らのロジックであるとのこと。
さて、このブログでも言及したことがある大西泰斗氏の「ハートで感じる英文法」の内容がDVDでも発売されていて、在庫切れの状況である。英語教員、英語教育関係者でも、高く評価する人が多い。英語学習者のブログなどを見ても「なぜ、学校の英語の先生はこういうことを教えてくれなかったんだ!」といういつもの恨み節が多く、世間は、ここぞとばかりに従来の英文法の指導法を批判→非難→糾弾にかかるという図式なのだろうか。その手のブログやサイトをいくつか眺めていたら「On は接触→圧力っていう展開に目から鱗!」という人がいたんだけど、それだってOnの機能・意味の一部分なのであって全体ではないんだから、ひとつずつ覚えていくしかないんだけどねえ。一番危惧しているのは、児童英語、小学校英語の指導が「体系化」していく時の拠り所として、この「イメージ」や「フィーリング」の路線に安易に乗っかってしまう英語指導者が出てくるのではないかということである。
前置詞に限らず英単語のイメージ化自体はもう随分と前から教材や辞書に取り込まれている。ベネッセのE-Gate英和辞典の基本語義のコア図解の遙か前に形となっていた政村秀實氏の『図解英語基本語義辞典』(桐原書店、1989年)、『基本語義イメージ辞典』(大修館、2002年)などはもっと評価されていいだろうと思う。結局の所NHKの力は絶大だということなのか…。
以下、大西氏の商品の目次。抜粋であることをお断りしておく。

Disc1:丸暗記にサヨナラ

  • 「イメージでつかむ」前置詞の世界
  • theは「1つに決まる」
  • 「導く」thatのキモチ
  • 「追ってくる」現在完了

Disc2:英語の自由

  • 「躍動する」進行形
  • すべての−ingは躍動する
  • 助動詞のDNA

Disc3:規則を捨てよ 感性をみがけ

  • 過去形が「過去じゃない」とき
  • 仮定法を乗り越えろ

ネイティブの感覚を共有するために「イメージ」「フィーリング」を利用する、という意図は分かるが、「イメージ」を殊更強調するのはどうなんだろうか?
「イメージ力」=「深い思考力」なのではないのか?以前、絵の使用に関して安井稔氏の「ヒントを視覚化したものであり、日本語の使用を視覚化したもの」という言葉を引いたが、大西氏の英文法の説明が多くの人の腑に落ちるのだとすれば、それはまさに、適切な言語情報を適切に視覚化しているからなのであり、単に「映像」が優れているからということのみに集約すべきではない。以前取り上げた『中高一貫英語教育成功の秘訣』(松井久博著、松柏社)で強調されるイメージを利用した英文法指導にも言えることだが、イメージを用いて全ての英文法を説明できるわけではない。あくまでもイメージを利用した方が、情報処理として効率がよいもののみを取り上げているわけである。現に、上述の目次ではイメージが全く使えないではないか?目次は本来、直接的に情報を与え読者の注意を惹きつけるためのものではないのか?にもかかわらず、目次にはイメージが使えないのだとすれば、イメージにはその意図を補足する言語による説明が必要不可欠なのである。とすれば、最も大切なのは適切な言語情報 = story messageなのではないか。
旧来の英文法指導が反省すべきなのは、

  • ルールとしての英文法の体系そのものに不備がある
  • 文法の説明で用いられる実例が英語の実態と一致していない
  • 英文法の説明で用いる言語情報が不適切である

ということであろう。明治以来、名教師といわれた人は皆、英文法のミニマムエッセンシャルズを自分のものとして、適切な実例と言語情報を与えてきたわけであるから。
丸暗記できないものをなんとかして記憶しよう、身につけよう、というのは結構。イメージが有効なモノに対して、より適切なイメージを整備していくことも結構。しかし、肝心の言語情報の整備をきちんとアピールすることを英語教育界は真剣に考え直す時期だろう。例によって、「宣言的知識」と「手続的知識」の排他的論議になってはならない。いつも最後はこの言葉の繰り返しになるが、知識が整備されているに越したことはないのである。