不幸な「和文英訳」

私が個人的に勝手に「和文英訳御三家」と呼んでいる大学の出題がある。

  • 奈良女子大学
  • 京都大学
  • 大阪大学

の3校である。
他にも和文英訳を出題している大学は数多あるが、この3つは毎年出題を見て考えさせられることが多い。私の勤務校はずっと首都圏にあったので、この御三家を受験する生徒はほとんどいなかったが、ほぼ毎年動向を眺めてきた大学である。以下過去2年分のみ抜粋する。

  • 僕も職業柄、人からよく英語に関する質問を受けるのだが、「この単語はどういう意味か」と単語単位で聞かれて困ることがよくある。そういう質問の仕方をする人は、聞いてみるとたいがい語学の不得手な人で、どうやら単語を挙げれば意味が特定できると思いこんでいるらしい。言葉というものは文脈なしに意味をなすものではないから、これが大変な誤解であることは言うまでもない。ましてや、日本語という別の言語に置き換えて説明をする場合、その単語がどういう文章のなかで使われているか、あるいは少なくともどのような単語と結びついているかを言ってもらわないと、まったく答えようがない場合が多い。(奈良女子大 2004年)
  • 私たちはいろいろな考えを持っている。人それぞれ思想がちがう、好みもとりどりだ。自分の好みについて当人がよくわかっていないケースもあるし、思想と呼ぶほどの考えとなると、どんなに未熟なものでも、年齢を重ね経験を積み、ある程度の知性をつちかったうえでなければ保持することさえむつかしいだろう。(奈良女子大 2005年)
  • 偉大な思想家の思想を咀嚼するには、長期にわたる集中的な読書が必要である。その営みを支援するのに必要なのは、読解力よりはむしろ忠誠心である。知識よりはむしろ信念である。「偉大な思想家」とは「理解できること」よりも「理解できないこと」の方から読者が大きな利益を引き出すことのできる思想家のことである。(大阪大2004年)
  • そこで、自分の言葉の才能の芽を育てようと思えば、やはり本を読むことなんです。できるだけ広い分野で本を読む。それも早く読むよりはゆっくり読んで、その文章をしっかり受けとめることをしていけば、その人の人生にとって有効な才能として、言葉への才能が残っていく。そして他の分野に行っても、その人は魅力的な人になって、自分らしい人生を作り出されるのではないかと思います。(大阪大2005年)
  • 超国際派ですね、と人からはうらやましがられているが、とんでもない。元来こわがりの私がどんな思いで毎回飛行機に乗っていることか。和食はもちろん、外国の食べ物だって、日本で食べた方が上手かったりするのだから始末が悪い。衣食住すべて和風好みの私は超国内派なのである。(京都大・2004年・後期)
  • 女性が従来学問の世界で充分活躍できなかったのは、男性中心で作られてきた社会に原因があることは疑う余地はありません。とくにわが国では従来年功序列の社会でありましたので、出産、育児のために女性が休むことは昇進の面で著しく不利でありました。今後は休んだ後の復職を容易にするとともに、復職後業績を上げれば速やかに昇進できる体制を作り上げて行かねばなりません。(京都大2005年)

先日のブログで言及した立命館大の出題のように「60語に満たない英語で、一般論に過ぎない誰が書いても同じような文にならざるを得ないような出題」と比べた時に、和文英訳とはいえ、一定のディスコースを備え、しかも文構造や語彙選択のレベルでも一定以上の習熟を要求されるこの御三家のような長文の和文英訳は英語力の評価として有効であると考えている。というのは、立命館大の出題で受験生が書くと想定される英語の文章は所詮、2,3パターンに収束すると考えられ、内容や立論の個人差は生まれにくくなるからであり、それであれば和文英訳を課しているのと大同小異ではないのか?ということである。例えば、2005年の立命館大受験者は次のような出題にどの程度対応できるだろうか?
「多くの人が眠い目をこすりながらテレビにかじりついたり、わざわざ現地までツアーを組んで観戦したりと五輪を取り巻く熱狂冷めやらぬ状況である。彼らの感動に水を差すつもりはないが、私には五輪は当初の存在意義を失っているように映る。近年ではとりわけ商業主義がはびこり、開催地、メディア、そして競技者本人も、フェアプレーの精神をどこかに置き忘れてきてしまったのではないかと訝しく思うのである。」

最後の文を「これでは、クーベルタン男爵も草葉の陰で泣いていることだろう」などとすれば、やりすぎのそしりを免れないだろうが、和文英訳、という出題形式そのものだけを取り上げての入試批判では、突き抜けた議論にはならないと思うのである。