紋切り型を超えて(その2)

自分の所属している学会のMLでも、「なぜ世間は学校英語はダメだと言いたがるのか?」と投げかけてみた。少しずつレスポンスがあるが、英語教師や英語教育関係者のMLなので、「世間」ではどう考えているのか?「世間」の声、というものがなかなか出てこない。英語教育者は「改善懇・改善協」など、お役所やお上相手の戦いは慣れていても、世間との戦いに於いては、世間を知らなすぎるのかもしれない。これでは「世間を支援する」ということが難しいのも無理はなかろう。「世間の批判は的外れだ」という英語教育者側の紋切り型の反論の裏には、実は「もしここを批判されたら全く言い返せない」「ここは批判されて当然」という「的」があるということなのだが、多くの場合、その「的」に批判を当てられているときでさえ、「いやあ、そこを言われるとどうにも弱いですね」と責任の所在をはぐらかしたり、「まさに、そうなんですよ」というように、当事者ではなく、自分も世間の側に回った振りをしたりしているのではないだろうか?
学校の授業の成果で、世間が肯定的に評価しているものにはどのようなものがあるか?というところから整理していくのも一つの手であろう。実技系の音楽の例が、上述のMLではあげられていた。私が出した例は、体育実技の球技でバスケットボール。ほとんどの生徒は体育の授業中のミニゲームに参加出来るくらいの習熟度には達するが、シュートが沢山(高確率で)入ったりする生徒は、やはり、学校以前にミニバスケットをやっていたり、学校の部活で授業以外にバリバリやっている生徒であろう。それでも、体育の授業で「上手いなあ」という生徒が、部活の中で活躍出来るかどうかは定かではないし、部活動で「すごいなあ」という選手が、インターハイや選抜に出場出来るかはさらなる関門を突破せねばならない。そういった、実技系の習熟度を考えた場合、今引き合いに出したバスケットボールの体育授業のみでの習熟度は、英語に当てはめるとどのくらいになるのだろうか?