「チュラチュラチュラチュララ」

怒濤の一週間だった。
先週末は本業チームの選手が送別会を開いてくれて、OB会会長、副会長や卒業していった元選手たち(一番上はもう30歳を過ぎているのだなぁ)も顔を出してくれたのであった。半ば恒例となった男子部による寸劇DVDの上映会と女子部による合唱(映画”Titanic”主題歌の替え歌)。色紙4枚に及ぶ数々のコメント。例によって最後は号泣。
水曜日の卒業式は今年は列席せず。理由は、昨年の式で立ち通しで懲りたのが半分、泣いてしまいそうだったのが半分。卒業生答辞がすばらしかったらしい。日の明るいうちは採点。7割方終了。このペースは頑張っている方です。夕方から、勤務校の英語科の方が開いてくれた送別会。非常勤講師なのに、送別会までしていただいて、さらには忙しい講師の方にも来ていただいて、本当にありがたいことだ。3年間ではあったが、自分を成長させてくれた職場だったと思う。生徒にも教師集団にも多謝。お開きの後、K先生と二人で途中下車してさらに地酒のお店へ。何を話すでもないのだが、同窓として、同僚として本音で教育を語り、また、馬鹿話に笑う良き仲間に恵まれたと実感。
木曜日は同友会の理事会で、ライティング部会次年度の人事案は了承され一安心。若返りの方向で動かざるを得ないのだろうが、異動などで学校の状況が変わると学会の運営や実務にエネルギーを割けないこともある。長い目で見ることが大切。場所を上野に移して、かつての同僚K先生とT先生と一献。あっという間に三時間。苦楽を共にしたというと陳腐だが、英語教師としてのお互いの良き理解者となっていることは間違いない。国公立大の合格発表が始まったので、合格者の数値で成果を問われる学校では気が気ではないだろう。
金曜日で、採点と成績処理、所見の記入を終え、一息。あとは答案のコピーをとって返却に備えるのみ。夜は、本業の縁でG大の仲間、後輩たちが開いてくれた送別会。福岡直送の魚料理と九州のお酒を堪能した。
Y、S、M、F、K、K、C、T、W。同期であっても卒業以来の再会、とか結婚式に出席して以来の再会というくらい久しぶりの組み合わせもあり、それぞれ盛り上がっていたようだ。
Sさんからは、餞ということでMatthew Pinsentの “A Lifetime In A Race”をいただく。写真ももちろんだが、文章もかっこいいのだな。Introductionの最後の一節を。

  • For the umpteenth time you ask yourself what is going to happen today. For the umpteenth time you cannot come up with an answer. Thousands of hours in the boat, millions of strokes throughout your career and only one thing is for certain. This is the most important day of your life. / Today is the Olympic final.

Sさんから、「高校では普段どんな授業してるんですか?」と質問があり、大まかな様子を伝える。先日の総括コメントを読んで興味を持ってくれたらしい。今年の生徒の愛憎コメントに次のようなものもあった。

  • 体育会の部活みたいな授業はやっぱ新鮮で面白かったし、あたしはスパルタな方がタイプだったのでやる気も出ます、自然と!! 先生はスパルタ部活の顧問というより、コーチみたいだなぁという印象です。

「リアルな現実、本気の現実」です。
そして土曜日は某国立大学附属中学にて、某社の原稿書き。朝9時過ぎから夕方まで頑張りました。途中の休息時間に書庫を眺めているとお宝の山、山、山…。端から見ればこそ、この環境がうらやましく見えるのだろうが、この学校を支えている当事者のプレッシャーは並大抵ではないだろうなぁ。
昨今、ともすると、英語教師の英語力、英語運用が取り上げられ、「教える人が英語の実際の姿をよく知らないから、教師の使う英語がこんな程度だから、教わる方の英語がダメなのだ」という批判を耳にしたりするが、批判それ自体はたやすいのである。これは同僚を批判する論理、メンタリティと似たようなものだ。「ダメ教師」と自分がラベルを貼っている教師が週に14時間とか16時間とか一定枠の授業を持ってくれているおかげで、自分は自分の信念に基づく実践に集中することが可能になるのである。その教師の代わりに、そのクラス「も」自分が教えてあげることは不可能なのだから、批判に終始するのではなく、共存共栄を模索した方がよい。同僚に関してはまず、「相互不干渉というレベルにとどまるのでさえ、いつも不満を持ちストレスを溜めることに比べれば精神衛生上好ましい」、などと考えてみることから始めるのも一案。いきなりinspireなどできないのだから。私も教育委員会や文科省後援などの教員研修を受けたことがあるし、講師も務めたことがあるが、英語教師の英語力そのものを向上させることは比較的たやすい。比喩で言ってみれば、「すでにある程度まとまった英語が書ける人の英語を、より英語らしく直す」作業であって、初学者に一からライティングを教えているのとは違うから。それに対して、授業力や指導力を向上させるのは難しい。高校では学校間の差異が、あたかも学校種が異なるといえるほどに著しいから。さらには、その異なる学校種の多種多様な資質を持った生徒それぞれの英語力を伸ばすのは至難の業だから。何年か掛けて、その学校の文化を踏まえ、目の前の生徒と授業を作り上げていくのが中学高校の英語教師の姿とは言えるだろう。生徒も教師も育つもの、育てるものであって、ダメならもっとよいものと、取り替えの利くものではないのである。
本日のBGM: Seven Days, Seven Nights (宮沢和史, The Sound of Shimokitazawa DVD No. 007)