「観客を信頼しろ」

「学校英語」に対する世間の風当たりの強さの歴史が英語教育の歴史とイコールというわけではないのだろうが、「英語教育が局所的にではあれ成功していた」ということを認めたくないのではないか、とさえ思いたくなるような意識が世間に蔓延している。『英語青年』2月号(研究社)の編集後記では、昨今の横浜市立大の国際総合学部の「留年問題」を枕に、中学・高校教員の「筑波研修」での英語力のなさ加減も指摘されている。私が親交のある高校教師たちは皆、英語力に長けた人なので、どうして世間の風はそんなに冷たいのかと訝しく思うことが多い。
その『英語青年』だが、2007年1月号掲載の斎藤兆史氏による書評は必見である。ごく一部を抜粋。

  • 読者は職業系学校のうしろに立って当時の授業を参観しながら、ときおり窓の外に見える当時の英語教育の全貌を概観することになる。そして、膨大な資料が物語る日本の英語教育史を目の当たりにした読者は、その大きさに圧倒され、自らの無知を恥じながら、著者の最後の言葉を胸に刻むに違いない。「日本の英語教育はどこへ行くのであろうか。その行く末を見定めるためには、過去から謙虚に学ぶしかない。
  • これは、分かりきったことを数字で軽く粉飾して論文一丁上がりというような、ちまたに横行する英語教育のえせ科学や、そのえせ科学に促された「英語が使える日本人の育成」と銘打つ国家的愚挙をひとつぶしにして日本の英語教育の流れを変えてしまうような、とてつもなく大きな岩石である。

江利川春雄著『近代日本の英語科教育史―職業系譜学校による英語教育の大衆化過程』東信堂
私はこの書をこの冬休みに読み始めたのですが、全く読み終わりません。とにかくもの凄い情報量。この斎藤氏による書評も、たとえて言えば氷山の全貌のほんの一角を示しているに過ぎないという感じです。この本の内容が広く世間で共有されていけば、英語教育に対する批判ももっと健全な、建設的なものになると思われますが、まずは英語教師から。まさに、間口も広く奥行きも深い、英語教師必読書と言えるのではないでしょうか。
そんな折りも折り、
日本英語教育史学会
の200回記念月例会で、著者の江利川氏を囲む形で、書評会が行われるとのこと。英語教育に興味のある首都圏近郊の方は参加しては如何だろうか。まだ、一度しか月例会に参加したことのない私が言うのも僭越だが、知的興奮も味わえる懐の深い学界である。私もなんとか本業の都合をつけて参加したいと思う。

  • 1月14日(日)午後2時より
  • 専修大学神田キャンパス7号館7階733教室にて
  • 参加費:無料
  • 詳しくは→ http://tom.edisc.jp/e-kyoikushi/monthly.htm をご覧下さい。

閑話休題。
『科学』2007年1月号(岩波書店)の特集は「<わかる>とは何だろうか」。
執筆者は伊藤正男、市川伸一、入來篤史、江沢洋、佐伯胖、友永雅己、長尾真、野中郁次郎、山鳥重。中でも、江沢氏の「わかるとは、わからなくなることだ」(pp. 62-63) は短い文章ながらも教育者に読んで欲しい内容。ただ、この記事だけで1400円ってのはパートタイマーの懐にはちょっと痛いなぁ。
今、通勤時に読んでいるのは、
中村翫右衛門『芸話 おもちゃ箱』(朝日選書、1982年)
後半にある「自戒ノート」というセクションがいい。

  • 呼吸と間と肚
  • メリハリ(譜)

などのコラムだけでなく、「古いノートの中から」と題して、

  • 一、俳優は、いつもこれで良いという満足を感じずに一生を過ごすものだ。
  • 一、日本の俳優は、能・狂言やかぶきや、人形浄瑠璃を軽く見てはならない。それぞれの祖先のきずきあげた世界的な芸術のなかから、将来の演劇・演技を導くものがたくさんあるはずだ。
  • 一、日本の俳優は、また世界の演劇を軽く見てはならない。優れた作品から吸収するべきものはどしどし吸収して、日本的に消化すべきだ。
  • 一、俳優は絶対の確信と、限りない反省と、この裏表を絶えず忘れてはならない。
  • 一、若いうちは、若さに把まれ。
  • 一、若いときはできるだけ考えたことをやれ、年とともに必要以外のものを捨てろ。

などという心得が示されている。本日のタイトルもここからとったもの。達人のことば、骨身に染みます。
同業の英語教師と協力すること、そして、教室の生徒たちに加え、かつては教室の生徒であったはずの「世間」を信頼することからもう一度スタートということでしょうか。
明日は朝6時から本業です。お休みなさい。
本日のBGM: Both Sides, Now (Ann Sally)