部分の記述と統一した文脈

日本の英語学習者は『速読』という言葉に弱い。聴き取りに於いては『速聴』、また、近年では『シャドウイング』『音読』のブームの中で、ひたすら音読するようになったのはいいが、内容理解、文構造の理解、語彙(品詞・活用・コロケーション)の定着という点で、非常に原始的な方法のみを繰り返していることも多い。
日本というEFL(外国語としての英語(学習))環境にある高校生が、日常生活で『英文速読』を求められる場面というのは極めて限られており、その場合においてさえ、『速読』ができない原因のほとんどは、『部分の記述を正しく処理し、統一した文脈を引き出すことができない』ことによるものであるということはいくら強調しても足りないだろう。『細かいところを気にしているから読めない』のではなく、『細かいところを気にしているのに、その細かいところの理解も覚束無いから、全体も読めない』のである。
『部分の記述』ということを考えるのに、次の例文を比較して欲しい。
次の表現は同じことを表しているだろうか?
1) His carelessness caused the accident.
2) They think that his carelessness caused the accident.
3) They don't think that his carelessness caused the accident.
4) His carelessness could have caused the accident.
5) You cannot simply say that he was so careless that he caused the accident.

  それぞれの学習者が、このような<部分の記述>の何がわかって、何が分かっていないのか、という、(ときには悲しい)現実からスタートすることなしに、やれ読解のヒントだ、読みとりの効果的ストラテジーだ、とお膳立てを整えてやったところで、いつまでも自力で読めるようにはならない。
リスニングで内容理解を試すことの利点は、<英語としての意味の固まり・まとまり(=チャンク)>ごとに後戻りせずに処理をしていくことで、自分の今現在の<語彙力><一つの文を作る文法力>といった<英語のまとめ方の力>と、それぞれのチャンクがどのように結びついて一つのまとまった話・物語・論説を作り上げるのか、といった<文と文のつながりを作る文法力><論理的一貫性を認識する力>の両方を確認できることにある。
  この作業を経たあとでの読みとり・読解は、和訳のための読解ではなく、確実に<目的・意味のある>読解であり、また情報処理のスピードも結果的に確実に速いものとなっている。
この段階まで来て初めて、速読やシャドウイングが高校生レベルで生きてくるのではないだろうか?