教師を育てる現場

昨日はELEC同友会ライティング部会の月例会。今年度の活動の方向性、N先生のCriterionデモンストレーション参加報告、T先生から千葉県の中学校の先生を対象としたアンケートの概要説明。今回はG大の院生のIさんもビジターで参加。今後継続して部会に新風を吹き込んで欲しい。
本日は某出版社の教科書シリーズ完成お披露目祝賀会(?)。社長直々に編集委員にご挨拶。深謝。中高一貫の進学校を中心とした採択だけに、ユーザーからの声も、検定教科書とは異なるものになりそうである。文法セクションの配列扱い、語彙の出現頻度など、見直しの必要な項目は多々あるので、改訂作業もどうなるか興味深いところ。
雑談の中で編集側から「現場の若い先生の指導力が落ちているのでは?」という話が出たのだが、K.M.先生が「若い先生は英語でどんどんしゃべるなど、物怖じせず英語を使うようにはなっているけれど、ホームルームでちゃんと話ができるか?といったようなことは適性もあって、努力せずとも生徒を掌握出来る人もいれば、そうでない人もいて、英語ができるできないとは別物。ただ、昔は新採で来た教師を、学校現場が1年間かけて育てる余裕があったと思う。先輩教師に育てられていったってことは確か。採用はするけれども、生徒や保護者からクレームが来れば、不適格教員というレッテルを貼って排除してしまうような東京都などのやり方で解決する問題ではない」とご自分の体験も含めて語ってくれた。
中高受験の塾などの教員の世界では、教師は40歳を超えると生徒とコミュニケーションが取れない、というよりも生徒の方が教師の話を聞かないのでコミュニケーションの取りようがない、という状況を聞いて、お受験文化の影響力を感じさせられた。塾では常に、若くて、元気があって精力的、躍動的に教科指導に当たってくれる教師に恵まれ、自分に合わないと思えばクラスを変えるか教師を変えることが可能であったわけである。子供や保護者からすれば、その感覚(理屈とは言いたくない)を学校へと持ち込んでいることを疑問視しないのも仕方がないことなのだろう。
全ての教員が、若くて、元気があって精力的、躍動的で生徒保護者に受け入れられている学校というものがあるとすれば、それは常にそのfast trackを走り続ける運命にある。皆が皆、走りっぱなしの学校が果たしていいものなのだろうか?間違った方向へ走り出した時に誰が待ったをかけられるか。流れに棹さすような教員だけでなく、静かに、深く物事を考え、対処するという「落ち着き」をもった教員、日和見や傍観の教員など様々な教員集団で動いてく学校の機能というものを、今一度見直したいと思っている。なぜなら、「教室」は、元気があって、精力的で、躍動的な生徒だけで構成されているわけではないからである。