not just to rob Peter to pay Paul

「英語を教えるなら、マザーグースなどのナーサリーライム、ギリシャ神話・ローマ神話、聖書などキリスト教の常識、そしてシェークスピアについて知らなければならない」と若いときから幾度となく言われてきた。しかしながら、今もってよくわからないのが、キリスト教文化における常識である。自分にとっての英語はいつまでも「借り物」のままなのだろう。
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が亡くなった。メディアでの扱いは国によって様々だが、Slate Magazine Onlineでは、Dialogueというe-mailでの誌上ディベートで、米国人にとってのカトリック教とヨハネ・パウロ二世が語られている( http://slate.msn.com/id/2116083/entry/2116193/ )。論客は、Crisis magazineにも携わっていたDeal W. HudsonとPittsburgh Post-Gazette のMichael McGough(なお、この企画のこのテーマは4月1日に始まったので少し驚いた)。こういう企画などは読んでいても今ひとつ実感がわかないので困ってしまう。英語の分かるクリスチャンに訊いても、腑に落ちないことも多い。
では、「キリスト教文化に於ける常識を英語教師として身につけるために洗礼を受け入信するか?」と問われれば、今のところそのつもりは全くない。少なくとも私にとってはそうである。実感としては分からないまま、付きあい続けていくしかない。
マザーグースを英語教師が知っていることはいいことであろうが、全ての中学生・高校生が学び、身につけるべきかと問われたら、少し躊躇するだろう。20数年前高校生だった私の世代は、サイドリーダー(副読本)でこのような古典を学んできた。その学習者としての経験から、今の中高生も早い時期に、英語圏の古典に親しむべし、というアプローチを取る教師の気持ちも分からないではない。
しかしながら、たとえ中学生、高校生がマザーグースやギリシア神話やシェークスピアについて知らないことで、英語でのコミュニケーションに支障を来すとしても、それはいっこうに構わないのではないか、と最近では思うようになってきた。また、それを知る必要がある、としても、必要性を感じたときにそれらを日本語の書物で読めばいい、と思えるようになってきた。中学校は週3時間+1。高校でも、多くて週5時間+1の時間しかない。古典を古典として楽しめるレベルに到達する前に、英語の学習自体が楽しめるレベルにまず鍛え上げることが先決である、という考え方は至極もっともである。
ただ、神話だから、マザーグースだから、キリスト教では常識だから、というだけの理由ではなく、「英語を身につけるために必要不可欠」である、という裏付けがあってこそ、古典であっても学ぶ意義があるのだと思う。英語の授業があるからといって、日本の中高生にとってのCultural Literacy(=特定の社会の成員が共有している文化的知識)が英米文化を規準にして定義されるべきではないことは確かである。
「その文化的知識の欠落を受け入れ、埋めるための努力をするか否かを主体的に判断できる基底能力を高めておけば十分ではないのか。キリスト教文化に密接に関わる背景を実感として理解できないためにコミュニケーションが取れない、という遙か以前の英語力をつけさせることにさえ現在の英語教育は成功しているといえないのだから。」という意見に対してどのように答えるか。英語学習者として、英語教師として、そして英語使用者として、付け焼き刃ではない、その場しのぎではない解答を出せないもどかしさを感じている。