「英語本」読むなら、こんな本を

勉強法の本ばかり読んでいても、勉強ができるようになるわけではない、というのは一面の真理である。
今、加藤恭子著『英語を学ぶなら、こんなふうに 考え方と対話の技法』(NHKブックス)を読み返している。97年刊であるから、もう7年経っているのだなあ。「聞き取りの技法」などは本当に試して欲しい(以前、いわゆる大企業に内定が決まった大学生に、この手法を試して、1ヶ月ほどでTOEIC200点アップ、ということがあったくらい)。ページをめくってかなり早い段階でこんな記述にでくわす。

英語力を必要とする人々は、勉強方法を工夫して確実に力をつければよい。だが、「必要ない」、「英語の勉強はしたくない」と考えている人々に対して、妙な劣等感を植え付ける雰囲気をかもし出すのには反対だ。後者のグループに属する人々には、堂々と「私は英語は分かりません。日本語で話したいと思います」、「複雑な話ならば、通訳をたのみます」と言ってもらいたいし、また言えばよい。(「なぜ英語を勉強するのか」、pp.9-10)

巷の英会話本とは違う切り口であることが分かってもらえるとありがたいのだが、巻末の対談では、上智大学教授、泉寿郎氏の次の発言が印象的である。(97年刊なので、それより少し前にインタビューしていると思われる)

ー インターネットの普及が進むと、より英語化が進むと言われていますが…。
泉 それも、錯覚(笑)。インターネットがアメリカ中心に生まれたので、英語がぜひ必要になると考えられたのですが、技術的側面からは英語でなければならないというわけではないのです。多言語による対応が可能で、実際に種々の言語による情報が行き交っています。日本語を学んでいる人たちも世界のあちこちにいて、日本語でのホームページも、自分の日本語力を実際に試す場になるし、世界各地から日本語による情報を求めてくるケースが増えています。実のところインターネットは多言語、多文化という形での世界のあり方に最も向いたメディアではないでしょうか。(「英語一元論への疑問」、pp218-220)

我が意を得たり!英語による「ライティング」の重要性を指摘する際に、「インターネット」「e-mail」だけではダメだ、と私が普段から力説しているのも同じ視座・視点である。
4技能それぞれに関しての具体的な練習方法も述べられている。まだ絶版にはなっていないはずなので、是非とも一読を勧める。

単なる、How toものではない語学の学習書としては、倉谷直臣著『英会話上達法』(講談社現代新書、1977年)も、時々読み返してみたくなる。倉谷氏の著作に関しては以前のブログでも少し書かせてもらったが、この『…上達法』が倉谷節の端緒といえるのだろう。

言葉は、もちろんたんなる道具ではありません。「何か」を伝えようとして発せられたかも知れない、道具としての言葉も、発せられた瞬間に、フィードバックして「何か」そのものを規制していく性質のものなのです。その「何か」などを忘れ去って、言葉そのものがリアリティとして花開くこともあるのです。(「はじめに」、p.6)

英語、それに関わる日本人---そこにはなにかしら一種独特のイヤラシサが、つきまとう。(中略)充実した海外旅行やら、有意義な余暇の利用やら、教養、友好、発見など、難しく考えないことにしましょうよ。カンカンになって「動機をさがす」という言葉の矛盾に落ち込まないことです。「なんやしらん、英語が好きやから」これが一番純粋な動機で、また、この感じで英語にとりくむ人が,一番のびるように思います。(「なぜ英会話」、pp.12-19)

倉谷氏が自ら「日本人論」と定義しているように、70年代と今では社会状況が異なるものの、日本人の言葉・コミュニケーション・語学に対する姿勢という、ことの本質を考えるための材料は十分に提供されている。
最近、書店で眺める英語関係の新書・選書などと比べると、今日紹介した2冊は情報の質・量ともに勝っている、そう、まさに「質量」=「本質としての重み」が違うといえるだろう。