「かしこそうな言葉づかい」考

朝は、5時半から本業。もう冬の空気。先週から重点的に指導している選手のレスポンスが良く、長足の進歩。意欲が前面にあらわれている。この時期は学園祭なので、トレーニングを管理するのは大変。楽しむところは楽しむ、とメリハリをつけるのも大事な資質。ファミレスで首脳陣と朝食、本業にまつわるクイズを出されたのだが、ブドウ糖が足りないのか、頭があまり上手く働かなかった。答えを聞いてびっくりするやらあきれるやら。
明日は、全英連での記録係。期末考査も完成したので、とりあえず、今夜は眠れそうです。
さて、『英語青年』10月号での、「大学入試和訳問題」に関する議論は相変わらず進展がない。受験に直接関わる分野の方の論評はいくつかネット環境で目にすることがあるのだが、いわゆる「英語教育界」はなぜ、誰も賛意なり反意なりを示さないのだろうか?
私の主張が「英文和訳派」とか「保守派」の代表と受け取られているとすれば噴飯ものである。山岡大基先生のサイトでの英語教育論を読まれることを真剣におすすめする。紋切り型の思考でこの問題をとらえている間は何も解決しないだろう。
私が不思議に思うのは、和訳を用いると枝葉末節にとらわれ、「主題」や「趣旨」、「筆者の意図」「教訓」をつかませることが出来ない、という批判である。このブログでも以前に書いたかと思うのだが、「細かいところに気をつけているはずなのに、その細かいところも理解できていないから」ということが原因ではないのか?英文の内容を日本語で説明したからとか、指示や換言を英語で行っているとかの問題ではなく、「読解」をしていないからであろう。『英語青年』10月号の拙稿でいえば、

  • 8.日本語に逐一訳さなければ理解できないと読み手が思っており、和訳したけれども理解できていない

ことを批判する場合に、

  • 6.日本語に逐一やくさなくとも理解できると読み手が思っており、和訳しないけれども実際には理解できていない
  • 10.日本語に訳すことは罪悪だと思っている読み手が、英語を英語のまま読もうとするが理解できていない

という状況をどうやって脱するのかを併せて示すべきだ、という私の指摘をこそ問い直し、批評して欲しいのである。
この原稿に関しては、私は努めて自前の言葉で語り、学者・研究者の受け売りを排して、「かしこそうな言葉づかい」を脱しようとした。
言語教育に携わる者は、

  • 宮原浩二郎『論力の時代 言葉の魅力の社会学』(勁草書房, 2005年)

の次のような物言いをどう評価するだろうか?

  • ずいぶん長い間、私は「要約」に頼ってきた。高校入試、大学入試、公務員試験、学位のための資格試験など、受験勉強の癖がいまだに抜けないのだろう。いや、アカデミックな研究の世界でもまた、一部の本物の知識人をのぞけば、みな「要約」を武器にしている。(中略)しかし、その人が本当に「何かを言わねばならない」必然性が感知される場合、その文字面から伝わる意味内容を「要約」してわかったような気になってはならない。その発言に耳を澄まし、その人の意識のふくらみに、その言葉の価値に対して敏感でなければならない。「要約」の欠陥にようやく気づかされた私は、いまだに直らない自分の悪癖に腹を立ててもいるのだ。 (pp. 83 - 84)

私も、悪癖から抜けきれてはいないようだ。
忙しい時に本を読みたくなる衝動は相変わらず、

  • 長田弘『知恵の悲しみの時代』(みすず書房)

を昨日から読み始めた。腰帯には「昭和の戦争の時代に遺された本から、伏流水のような言葉と記憶を書きとどめること。『不戦六十年』を過ぎたいま、この国の自由と『言葉のちから』を問う。」とある。今のところくみ上げた伏流水は、こちら。

  • ダイアローグというものをどのように考え、どのように担うかというところに、時代の水準はあらわれます。ひるがえって、「大は外交の折衝より小は一家の団欒に至る」まで、いまなお見失われているのは「複白」の思想です。(p. 42、「複白」の思想(1931))

例によって、あとがきからも抜粋。

  • この『知恵の悲しみの時代』に取り上げた本は、戦争の時代に公刊された本を原則として、取り上げた文章も、すべて戦争下に上梓された初出そのままにし、旧かな(漢字は新字体)はもとより、特異な用法や誤植もあえて元のままです。昭和の戦争の時代は、何よりも言葉がためされた時代でした。(p.236)

今の時代、言葉がためされているのだとすれば、未だ戦いの中ということか…。
本日のBGM: The Answer (Motoharu Sano and The Hobo King Band)