是々非々

新学期の会議づくしを経て、始業式に続いて平常授業。
教師が12月より忙しい場合は何と呼べばいいのだろう?超師走?師駆?師飛?
高1は「今月の歌」。
思うところあって、John Lennonの ”Grow Old With Me” を使った。10年ぶりくらいか?私的な歌ではあるけれども、祝福の歌でもあるはずなので。ブラウニングまで行けるかどうかは「?」。Youtubeの画像はビデオを切り貼りしたもののようだったが、Yoko & Lennonを知らない世代にはちょうど良かったかと。
高2は、短文のディクテーションから転換練習。冬期課外の言語材料の「名詞句」の把握、「助動詞の番付表」の定着を見る課題。極めて機械的操作的な内容。
勉強会の余波もそれぞれのフィールドで生まれつつあるようで何より。波紋はJOJOに拡がるものなのですよ。無駄ではないのです。
「ことば(へ)の気づき」ということばが言語教育で聞かれるようになってきた。Language awarenessの訳語「言語意識」という日本語が今ひとつピンと来ない人に、どのていど「気づき」ということばが効いているか、まだまだ専門家がやらなければならないことは多いように思う。今風の取り組みも視野に入れておきたいと、

なぞを読んでみる。昔読んでいたSharwood Smith は今どんなこと言っているのかネット上をいろいろ探してみたり。
外国語大学の出身としては多言語主義の流れに抗うつもりはないが、棹さすほどには日本の中高の言語教育や政策は成熟できていないのではないかと渋顔。
『英語教師の常識 I』(大修館書店、1986年)再読。
大谷泰照氏曰く、

  • われわれはこれまで外国語の問題を考える場合に、とかく国際語や大国語や友好国語といった、いわば政治・経済的なモノサシにとらわれすぎていたようです。しかし、学校教育科目としての外国語は、移ろいやすい政治・経済的尺度よりも、むしろ本来、純粋に言語・文化そのものの尺度で考えられるべきもののはずです。言いかえれば、母語とは遠く隔たった異質の文化圏の対照的な言語の学習という視点を欠いてはならないはずです。(pp.13-14)

高梨康雄氏曰く、

  • 日本の学校における英語教育を中心に考えてみることにします。「日本の」と限定したのは、日本語の中で生まれ育った人に英語を教える場合、日本語の特色をよく知っていることが必要だからです。また、学校における英語教育を主として考えるのは、それが日本の英語教育の中心であり、そこで使える指導法や指導技術は他の英語教育機関でも立派に通用するからです。さらに、日本の学校で英語を教えている英語教師は「日本人のための英語教育はこれだ!」と世界に向かって堂々と主張できるようでないといけないからです。このように考えますと、「英語の学習が成功するカギ」は、日曜日を除く毎日、日本の各地の学校で行われているであろう英語の授業の中にこそ存在しなければなりません。(pp.21-22)

安藤昭一氏曰く、

  • なお「技能」というと、とかく「聞き話し読み書く」という伝達の4技能のことのみを考えがちですが、それだけでは不十分です。そういう外的言語活動の他に、その4つを統一して内から支える内的言語活動――認識し思考する能力――をも、中学1年は中学1年なりに、また高校3年は高校3年なりに、総合的に育てることが大切です。(p.27)

その後、IV章「英語学習指導のあり方」、にある後藤忠勝氏の

  • 6. 「『言語活動』のあり方」(pp93-94)

に始まる「言語活動」と「学習活動」を自分の頭でもう一度考えて、続いて安田一郎氏の、

  • 7.「『言語材料』の指導のあり方」(pp.111-114)

に始まる「言語材料」の扱いの変遷を辿り直す。
主だった項目を読んで、巻頭論文の編者の一人でもある伊藤健三氏に戻る、

  • 英語教育が関連科学の研究成果を利用するためには、できるだけその発達に接触していなければなリませんが、同時に、必要なものをすくいとる自らの網を持つことです。その網はお互いの実践経験を確かめ合いつつ得られる問題意識の蓄積によって編んでゆかなければなりません。その網こそ待望の英語教育理論で、これによってすくいとった関連科学の研究成果を、教師一人一人の判断によって実践に移すべきものは移してゆくわけです。さもなければわれわれの実践は関連科学に振りまわされる ’a child of fashion’ の地位にいつまでも甘んじていなければならないでしょう。早く、われわれは、「この網にかからないものは必要なものではない」と、独善と偏見なしに、自信をもって言えるようになりたいものです。そういう認識を新たにし、「教えつつ学び、学びつつ教える」という理念を日常的に実現していくよう努力する以外にはありません。そのような教師の真摯な姿は、また、必ずや生徒に感得され、生徒誰しもがもって生まれてきている知的好奇心を燃え立たせる引き金になるであろうと確信しています。(p.7)

理想論に聞こえるだろうか?
次の言葉と自分の中ではシンクロした。

  • このように私たちが今日生きていく上で、直面するいろいろな問題は、言葉の問題も含め、日本文化全体の問題として考えなければ理解できないし、解決できないことがたくさんあります。(中略)たとえば、人類の平和といったような、抽象的な理想というものは、世界中のどの国でも同じように持っていると思います。ただしその理想は抽象的だから、そこから、日本でいえば憲法第九条の問題といった、いろいろ具体的なことが出てくる。そのとき、その理想が実現されない、できない中で、本当の理想をどうやって自分が作り出し、発見して、それをどうやって追いかけていくのか。それが理想なんだと思うのです。/つまり、そういうふうに考えて理想を追いかけていかないと、理想はそこにあるものでもないし、宙に浮いているものでもないですからね。僕はそう思います。(木下順二『日本語について』、pp.48-49、(抱樸舎文庫、1997年))

karishimaさんのブログで決意(のようなもの)を受け取った。
東京ではFTCで新たな動き。「しみじみ」とは良い形容だなぁ。
こういった偶発も連なれば「なんです山脈」になるかも知れませんし、ならないかも知れません。

本日のBGM: 恋の追跡(ラブ・チェイス)/欧陽菲菲