英語教育の理念を探して(2)

松井先生の英語教室 第7回がアップしました。1年ぶりの更新でしょうか。左のアンテナ、または→ http://www2.odn.ne.jp/~aav21920/english/lesson07.html からどうぞ!
さて、前回に続き、英語教育を深く考えてみることにします。
中村敬『なぜ、「英語」が問題なのか? 英語の政治・社会論』(三元社;2004年)を再読。
「英語教科書の1世紀(2)」(pp.195-196) では、至極真っ当な言語観・教材観が語られている。私が、検定教科書でライティングのみを続けたのは、英文拝借主義からの脱却を目指したかったからでもある。ここで指摘される「一貫性のなさ」は現行の検定教科書に限らず、市販教材でも目に余る。

  • 「多言語・他文化主義」を標榜する70年代以降の教科書は、戦後民主主義の理念を核にして、戦前の教科書よりははるかに多様なテーマを扱うようになってきている。そこから起こる英語をめぐる「自己矛盾」については既に述べたが、もう一つの問題は、題材間の一貫性のなさである。(中略)題材の非連続生は、ほとんど「分裂病」的としか言いようがない。(A)では、アメリカのお祭り気分を味わった学習者は、翌日には一気に気分転換をはかって、反人種差別運動の象徴的人物伝を読まされる。(中略)(C)(教科書名略)は、リーディングの教材として「エイズと闘った少年」をとり挙げている。素材自体は社会性の高いもので、とり挙げることに異論はない。しかし、このような、当事者にとって生死に関わる教材のカテゴリーを示すタイトルとしてEnjoy Reading!とあるのは、いくらなんでもひど過ぎないか。思うに、編集者にとっても教科書作成会社にとっても、AIDSは、彼等の身体から遠く離れて存在する単なる記号でしかないのである。

ここで指摘される「記号化」の問題は根が深い。同様の指摘は、教科書でポピュラーな題材である「環境問題」に関してなされている。テーマに関して、次のような一連の質問がなされることに中村は異を唱える。
1. How often do you save empty milk cartons for recycling?

  • 問題の本質は、発信型の英語力をつけることを目的とした教材の英語のレベルが、ここに示された程度のものでしかないということだ。一部の(「帰国子女」などのような)既に相当の訓練を経てきた高校生は別として、一般的には、「環境問題」を突っ込んで議論ができるレベルには達していない。複雑な問題を低レベルのことばで論じようと思えば、いきおい問題が単純化される。(pp.182-183)

安易な自己表現を唾棄すべし!と私が普段から力説しているのも同様の理由である。
「ネイティブ・スピーカー信仰」(pp. 107-108) では、多くの日本人英語学習(経験)者のもつルサンチマンの背景を浮き彫りにしているかのようだ。

  • 未知の外国語を習得するためにはモデルを必要とする。それは避けては通れない。その外国語をものにしようとすればそのモデルに限りなく近付く努力を強いられる。モデルに限りなく近付く努力をした結果、モデルにとり込まれればその瞬間からその人はその言語の二級の市民になる。妙に”英語風”を吹かす国籍不明の人種がこれに当たる。一方,とり込まれる一歩手前まで行きながらその言語を徹頭徹尾対象化することのできる人もいる。こういう人は外国語を見事に駆使しつつ自己の本体と自律性を保持している。夏目漱石や内村鑑三など明治の日本には少数ながらそのような人物がいた。もちろん、後者のありようが望ましいが、そのようになれるのはごくわずかの稀なる人である。大部分の人は、そうなれず、モデルに近付くこともできない。中途半端で、ただ学習している言語とその背後にある文化への憧れだけを抱いている。しかし、この憧れは、状況次第では「英語嫌い」のようにまったく逆の態度に転化する。

私の世代では、多くの英語教師は、「子供の頃から英語が大好き」で、「(英語の)ネイティブスピーカーのように英語を使う」ことに憧れを抱いてきた人種に属するのではないだろうか?最近では、英語教育系の研究会・研修会で発表をする若手英語教師や参加する英語教師志望の学生のうちの帰国子女の割合が高くなってきたように感じる。現在の文科省の施策や世論の圧力で「教師の英語運用力」がことさら強調され、「英語の授業は英語で」というお題目が標準化してしまったときに、英語教師が自分の中で、自らの英語使用を対象化することができるか、不安を感じる。
先日の某TV局の特集でかみ合わない議論を聞きもどかしく思ったが、英語教師が世間との温度差を埋めるためには、この中村の著作のような言説としっかりと向き合うことが大切だと感じている。