英語教育の理念を探して(1)

安井稔『英語教育の中の英語学』(大修館書店;1973年)を読んでいる。大学生の頃以来だから20年以上たっている。今、これほどの奥行きを持つ英語教育の本を書ける人がどのくらいいるだろうか?

  • まず、「英語を教える」というのは、いったいどういうことであるのか。一見して明白であると思われるかもしれない。が、決してそうではない。意見の一致を見ることは困難であるかもしれないとさえ思われる。われわれは外国語として英語を習うのであるから、この問いは、もっと一般的に、「別なことばを習う」というのは、どういうことであるか、という問いに置き換えてよいであろう。別な、新しいことばを習うというのは、そのことばに関する理論を学ぶことではない。そのことばで書かれた文学や歴史を学ぶことでもない。そのことばを母国語としている人々のものの考え方を学ぶことでもない。これらのことを学んではいけないとか、これらのことが重要でないと言っているのではない。英語を学ぶということと、これらのこととは、関係はあっても、同じではないと言っているにすぎない。「そとから見た日本の英語教育」(pp.245-255)

この原稿のオリジナルは『現代英語教育』の1964年に掲載されたものであるから、ほぼ42年前ということになろう。私が生まれた年である。この論考も含め、英語教育論が第3章で30ページにわたって展開されているのだが、現在の『英語教育』の連載や特集と比べると言語教育そのものを考察しているものが多い印象を受ける。指導技術や指導実践に意味がない、というのではないが、安井氏の書くものには、その背景にあるのかその足下にあるのか、その技術や実践を支える、裏打ちする理念・信念・哲学のようなものと、そこに底流のように存在する優れた言語直感が垣間見える。
最後の小論となる「4技能は一体であるか」(pp.272-276)では、

  • 以上、要するに、四つの技能は、不可分の一体をなしているものではなく、かといって、一つ一つが個々バラバラ的に存在しうるものでもないということである。未分化の統一体として扱うことも、ごちゃまぜ的に扱うことも誤りであるとしてよい。もちろん、わたくしは、四つの技能が円満に発達することが不可能であるとか望ましくないと主張しているのではない、「4技能の円満なる発達」とただ唱えさえすれば、魔術のように、四つの技能が同時に習得されるかのごとき主張の不備であることを指摘したいのである。

と、今風の英語教育に対する啓示と受け取れる指摘がなされている。
50ページに及ぶ英語史に関する記述、pp.272-273でさりげなく語られる「英作文のすすめ」や、pp.213-227の「ことばとはなにか」といった論考まで、この日本が世界に誇る英語学の巨人の懐の広さが感じられる。
アマゾンで見た限りではまだ絶版にはなっていないようなので、『仕事場の英語学』(開拓社)と併せて若い英語教師の方も是非一読を。
期末テスト採点は高2から。今日一日で、Paul Robesonの手紙以外はすべて採点終了。いいペースである。
明日より本業に専心するので、しばらく更新ができないかもしれません。悪しからず。