As parents love their children, so ....

@anfieldroad さんの企画に参加しています。

これまで教わった中で、最も印象に残っている英語教師。
http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20141001/p1

中学で3人、高校で3人の英語の先生に教わってきました。全て日本語母語話者の先生です。
大学では10人以上になるでしょうか?こちらは英語ネイティブも三分の一くらい。
大学の場合は、「英語科教育法」といって、「英語の教え方」や「教え方の歴史」を学ぶ授業がありますが、それは「英語」そのものの授業とは少し分けて考えたいと思います。
ということで、「英語教師として最も影響を受けている教師」というカテゴリーでのランキングならダントツの一位になるであろう、若林俊輔先生は除外。

また、英語音声学や英語学の授業も、「英語」そのものを教わるというのとは少し意味合いが違うと思いますので、竹林滋先生や松田徳一郎先生は除外。

そんなカテゴリーで考えると、最も印象に残っている先生は3名。
教職でもお世話になり、卒業間際まで英語のことでは色々な質問に答えていただいた、河野一郎先生。大学の1,2年の授業でお世話になり、「君は英語はできないけど、言葉のセンスがあるね」と励ましてくれ、「英語学」や「認知科学」関係の学会にも連れて行っていただいた仁科弘之先生。このお二人の影響、教えは今でも自分の中に脈々と流れていると思っています。そして、今回取り上げる、高校時代のM先生になります。

M先生に関しては、このブログでも何回かエピソードを書きましたので、重複する部分も多いかと思いますが、何卒ご理解ご了承下さいますようよろしくお願い致します。

中学3年生の10月まで、英語難民と言っても良い授業への参加だった私が転機を迎えたエピソードは、

「私の英語学習歴」
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20110301

に書いていますので、そちらも併せてお読み下さい。そうそう、このエントリーも、anf先生による企画の一つでしたね。

何とか、運良く難民を逃れた私は、高校は地元北海道の「進学校」と目されるOH高校に通いました。最近はFBで同期の何人かとは繋がっていますので、同期の方がこちらを見るようなことがあれば、情報の不備、事実関係の矛盾などを指摘してくれると助かります。

私は1979年4月入学、1982年3月卒業ですので、「グラ・コン」「リーダー」世代。
学習指導要領で言えば1970年10月制定(1973年4月施行〜1982年3月まで)版に則ったカリキュラムで学んでいる建前です。

具体的な内容は、こちらのリンクでもご覧ください。
学習指導要領データベース

erid.nier.go.jp

英語のリーダーはまだ「英語IIB」と呼ばれていた頃でした。何年も続けて、研究社のNew Ageを使っていたと思います。今はなきこの『新時代』の教科書には文学の香りも少しだけ残っていました。 W.サロイヤンの作品からの抜粋が印象に残っています。

高1のカリキュラムは、GC(通称『グラ・コン』;グラマー&コンポジション)とR (リーダー;読解系)に分かれていたかと思います。

M先生には、授業では高1のGCと、1年飛んで、高3のRを教わりました。(高2は、ロッカーのような大きな体躯のY先生だったように記憶しています。)
高1のGCでの文法は、M先生が教材研究をしっかりされていたおかげか、余り疑問の生じることはありませんでした。
GCの教科書には、「オーラルコンポジション」のセクションもあり、十分な口頭練習の先に、達意の文章表現を目指す、という高い志に基づくものだったように思います。
当時のノートは流石に今手元には残っておらず、ルーズリーフが断片的に取ってある程度ですが、明示的な指導とは言え「英語を掌に収めた」人による、内容の濃いものでした。
自分が高校生を教えて29年になりますが、授業のレベルはかなり高かったのではないかと思います。

  • He worked very hard day after day, only to fail in the examination.
  • While I was trying hard to pull it out, you spoiled the scheme by pushing it in.

など、当時覚えた用例などは、今でこそ、

  • 木村明『英文法精解』(培風館)

からのものだったのだなぁ、と分かるのですが、高1の私には結構ハイレベルで、「英語に関しては、この先生について行こう」、ということを自分で決めていました。

当時の高3の定期試験の問題を再録しておきます。(過去ログだと、http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050128

語彙の問題から1題を紹介。
Watching him rehearse, one sees a most ebullient (A) temperament, restrained only by his exquisite (B) appreciation of perfect performance.
(A)(B) の意味に最も近いものを選べ.
A: temperament
1 auditorium
2 nature
3 temperature
4 habit
B: appreciation
1 gratitude
2 understanding
3 action
4 description
現行の指導要領、検定教科書に基づく語彙レベルとの違いは歴然。ちなみに、temperament はJACET8000では6409, appreciationは4220となっているが、それぞれ、その前の語が難しいので容易には文脈で類推が効かないようだ。(ebullientはリスト外、exquisiteは6775である)
18歳の私がこういう問題を普通に解いていたことにも驚くが、こういう出題していたM先生はすごかったなあ。

高1の冬から、自分の課題を克服する取り組みを始めるとき、その相談に乗ってくれたのもM先生でした。

  • 英語のリスニング力アップにはFEN(現在のAFN)を聴くのがいい。

というのは、恐らく松本道弘氏の影響だと思うのですが、私の自宅ではAM波(中波)のFENラジオ放送はノイズが酷く聞ける状態ではなかったので、M先生にアドバイスをもらいに行って、教材を借りることになりました。

その教材が、

『FENニュース聞き取り60分』 (金星堂;1978年刊;カセットテープ60分1巻)

でした。この教材にまつわるエピソードは、

私の選んだ教材シリーズ(第6回)
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050313

に詳しく書いていますので、そちらを是非。

高2では、担当がY先生に代わりました。教科書はそれなりのレベルで、例文集から毎週小テストがありましたが、今ひとつ手応えがなく、自分で「このまま普通に授業を受けていたら、もう伸びないんじゃないか?」という不安があり、自分に負荷をかけようと、「ノートは全て英語で取る」ということを自分に課していました。3年生の先輩と一緒に、模擬試験を受け始めたのも、この高2になってからでした。随分嫌がられたと思いますけれど、一学年400人以上の規模の進学校で、3年生と一緒に模試を受けると10番台後半から20番位の順位でした。先輩の凄さも分かり、自分の力量も把握できるので、まあ、いい選択だったのではないかと思っています。

そんな中、英語の質問がある時は、Y先生ではなく、M先生のところに行っていました。高2の終わり、高3の始め頃から、始めたのは英文添削。入試過去問ではなく、自分が選んだ日本語の記事やインタビューを英訳して、その添削をお願いしていました。
過去ログだとこちらに詳しく書いています。

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050310
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20130315

今では、「ライティング」が専門と言うことが多い私ですが、私のライティング指導の根幹をなす「活動」である『表現ノート』の原点がここにあります。
時に真っ赤になるほどダメ出しされ書き直し、またある時には、「そもそも、英語の論理展開になってないから英語じゃない」とダメ出しされ、書き直しを命じられ、その度にファイルしていったレポート用紙で、バインダーがパンパンになるくらい数を重ねると、色々なものが見えてきました。

  • 「ちゃんと読んでいないから、ちゃんと書けない。」

その気になって読むからこそ、自分が読んだ英文中に自分の書きたかった「意味」に近い表現があることに気づくのだ、ということに気づけました。

高3になると、再び授業担当がM先生になったので、授業の内容は全て授業中に消化吸収する、ということを心がけていました。

受験勉強自体は、高3の2学期までほとんど何もやっていませんでした。今でも覚えていますが、とにかく、問題を解くのではなく、「『英語』をやろう」という意識でした。そんな意識を持てるようになったのも、M先生のように、自己研鑚に努める英語教師が身近にいたからだと思います。

次のエピソードは、過去ログにも書きました(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20101120)が、こちらにも再録しておきます。

雑誌『翻訳の世界』は毎回応募していましたが、サッパリでした。でも、今の私の英語力を下支えしてくれていると思います。高校3年の時は『工業英語』というテクニカルライティングの雑誌も買って時々投稿していて、一度投書欄に載ったのをM先生が見つけて、職員室に呼び出された時のエピソードは、まだブログに書いていませんでしたね。「職員室に呼び出されるなんて、何かまずいことやったのかな?」と思いきや、

  • よくこんな雑誌読んでるなぁ。

と感心されたのでした。僭越ながら、私の方が、「M先生って、文学とか時事だけじゃなくて、こういうのも読んでいるんだ」と尊敬したものでした。

次のエピソードは、広島大学の柳瀬先生とのコメント欄でのやりとりに書いたものですが、はてなダイアリーの検索機能では、コメント欄は対象にならないので、加筆修正して再録しておきます。

高校3年の3学期にあたる頃だったと思います。当時、英語の担当だったM先生が、突然英語の授業に中国系マレーシア人を連れてきたことがありました。シラバスというか、授業の進度から言えば、そこは共通一次の後、国公立の2次試験の前あたりの、人によっては、結構ナーバスな時期だったのではないかと思います。

  • さあ、あとはお好きなように!

と言い残して、クラスを去るM先生。残された私たち生徒と、そのマレーシア人とで、1時間、英語での質疑応答。
当時、行きつけの喫茶店に屯していたモルモン教の宣教師の友人はいましたので、英語を使って話す・聞くということをしたことがなかったわけではありませんが、英語ネイティブ以外と英語を使って意思疎通したのはこの時が初めてでしたので、しどろもどろでしたが、妙な充実感がありました。
ただ、自分の口から出る英語のレベルと、同じアジアの人であるマレーシア人の口から出る英語との「量」と「質」の差を痛感しました。
彼は、当時、北大の大学院の学生だったそうです。その後、Yale大学に行き研究者になり、今は、台湾大学の教授をしているとのこと。
高3の時の、この経験が自分の英語教師としての根っこに確実に生きているのですね。

M先生は、私が高校を卒業してから、程なくして札幌の高校に異動になり、その後お会いする機会がないまま、私は山口へと居を移していました。思いがけない再会は突然のようにやってきます。

A day in life
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20071208

に書いた、札幌での「ライティング指導」のセミナー講師をした時でした。二十数年ぶりの再会。自然と涙が溢れるものです。この再会を気に、メールなどのやりとりが始まり、ある日、自宅にこんなものが届けられました。

Make your dream come true  (柏艪社、2010年)
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M先生の書かれた物語。英文で書かれたあと、プロの翻訳家の手によって日本語に訳され、それが一冊の本になったものです。

物語の第一編はこんな書き出しで始まります。

On the morning of January 4, 1999, Takashi was waiting in the lobby of Chitose Airport. He was going to fly from Narita to San Diego via Los Angels.

主人公と思しき人物の名前に「奇遇だな」という思いはありましたが、英文編を読み終え、日本語翻訳編を読み始めて、その漢字表記に「はっ」としました。

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自分が「師」として英語を教わり、自分の進むべき道を選ぶのに多大な影響を受け、「英語人」の一人としてその高みを目指してきたその人は、自分の手による「英文の物語」の主人公に、私と同じ名前を付けてくれていたのでした。

「教師冥利」などという言葉を私も時として使ったりしますが、「生徒冥利」「弟子冥利」というのは言葉としておかしいので、「弟子としての誉れ」とでも言いましょうか、嬉しい限りです。本当に、英語教師としての自分が今あるのはM先生がいればこそ、M先生との出会いがあればこそなのですから。

私がM先生から受けた恩は、返すことの出来ないほど大きなものです。そして、それが返しきれないほど大きかったからこそ、今日までの29年、手を抜かずに英語ということばを教えてきましたし、今も、目の前の生徒に英語ということばを教えていると言えるのだと思います。
礼。

本日のBGM: Respect (Aretha Franklin)