「ん」から振り出しへ

年末の訃報に際しての喪失感はなかなか言葉にすることができないまま、ボディブローのようにそのダメージがずっしりと身体に残っている。

大学で競技スポーツに永らく関わった者として、ラグビーと箱根駅伝はずっと注視してきた競技なのだが、今年の箱根駅伝は、音声を消して見ているというか眺めているだけのことが多かった。

さて、正業の英語教育関連の話題から。
昨年は、何回か「多読」に関して書いてきたし、「第6回山口県英語教育フォーラム」でも徳山高専の高橋先生に「多読実践」について語っていただいた。昨年末の『多聴多読マガジン』の12月号での特集記事が、現時点で多読について考える良い機会を与えてくれると思うので、多くの人に読んで欲しい。
新年のブログエントリー第一回は、「音読」と「音声指導」について書いておこうと思う。
年末の「達セミ」では、私の普段の授業での活動を紹介した。
「対面リピート」と「Flip & Write」、「イカソーメン」などなど。
その根底には「音読」がある。音読が呪文のようになってしまう場合には、その原因として、意味の処理、構造の処理が適切に行われていないことが考えられる。
その部分を浮き彫りにするための工夫が、

  • チャンクの切り出しを変える

という手法である。これは、中学段階でも後置修飾が出てきてからは留意して欲しいと思っている。これに似た手法は、靜哲人先生の『…大技・小技』でも扱われている。
このブログの過去ログだと、

などを参照されたし。

音読指導で私がかつて行っていて、今ではやらなくなったことの一つは、

  • 個人最速読み

といった、「文全体音読に要する時間を短縮するような読み」である。
現在は、

  • 個々の音、リズムが保たれていること
  • 「意味が立ち上るような (inspired by 植野伸子)」音声表現

を重視している。
巷では、

  • 音読ブーム

などと呼ばれることがあるようだが、日本では伝統的に行われている「音声指導」の方法である。
かつては、「英文朗読法」などと呼ばれていたこともあるようで、この過去ログでも、

  • 青木常雄著『英文朗讀法大意』(研究社、1933年)

をくり返し取り上げ、先人の到達していた高みを少しでも想像できるよう記事を書いている。

流れをもう少し下ると、

  • Helen McAlpine・石井正之助 「英文朗読法」

という指導法の記録も残っている。これは、

  • 語学的指導の基礎 (中) 英語科ハンドブックス 第三巻』 (研究社、1959年)

の巻頭に収録されているもの (pp. 3-104)。以下目次を紹介。

I. はじめに (英文の正しい読み方について)
II. 文をどこで切って読むか。 (息と意味と音調の段落)
III. 文のどこを強めて読むか。 (文強勢の問題)
1) 文強勢
2) 強形と弱形
3) 文のリズム
IV. 文の調子をどのように上げ下げするか
1) 音調とは何か
2) 音調の表記法
3) 音調の型と意味
4) 強調の音調
5) 種々の文とその要素の音調
6) 英・米音調の差異
例文
参考書目

となっている。「はしがき」で石井氏はこう述べている。

英文の朗読法についての関心は、近ごろ視聴覚教具の普及と共にますます高まってきた。英語の学習の重要な目標の一つは個々の音が正しく発音できると共に、連続した音をも正しく発音できる技能を獲得することにある。ある意味を担った音の連続が、どのような力に支配・影響されて、そのリズムやメロディーを生みだすか、精密な理論的検討は教壇には必要ないとは言え、基本的な原則のいくつかは英語学習の初歩に徹底的にドリルしておく必要がある。ただ原則を強調することが、規則の機械的な適用におきかえられて、生きた言語の流動の一面、ことに強勢・リズム・音調などの、一定の枠にはめきれない機能を、忘れたり軽視したりする方向にそれることは、厳に戒めなければならない。本稿にあげた音調の例のごときも、可能な型の一つを示すものでこれが唯一のものでないことを十分承知していただきたい。(中略)
また、Mrs. McAlpineは例文のそれぞれをいくたびか繰返し朗読して音調やリズムを示され、さらに筆者の種々の質問に答えられるほかに有益な示唆を惜しみなく与えられた。(この夫人の朗読の一部---第IV章3, 4 節の例文と末尾の例文---をEP盤レコードにおさめたものが用意されているので、音調や強勢やリズムの実際をそれによって聴取されることを切望する。) (以下略)

このような指導が可能なのは、石井氏の卓越した英語力、中でも韻律も含めた「英詩」を掌中に収めていることが大きいのではないかと推察する。英語史と英詩は、第二言語であるからこそ、教員養成のどこかできちんと位置づけて欲しいと思っている。

私自身は、70年代から80年代にかけて、公立中高での英語教育を受け、既にカセットテープを用いた指導には触れていたが、それ以前の50年代末から60年代にかけての高度成長期でも、このような「音声指導」はなされていたのである。(私自身、このMcAlpine氏の朗読は未聴。歴史ある大学の教育学部などの附属中学校・高等学校などであれば、倉庫や書庫に保管されているかも知れないので、情報をお寄せいただければ幸いです。)

その後、「朗読法」の時代が過ぎても、その指導の根底に流れるものはそれほど変わっていないように思う。

語学の勉強に、ネイティブスピーカー (その言語を母国語として話す人) の声を吹き込んだテープがいかに重要であるか、ということはあらためて言う必要もないほど今では一般の常識となっています。よく、「日本人の英語の勉強は効果があがらない」という言葉を聞きますが、なぜ効果があがらないのか、という原因をひとことでいうとすれば、それは英語を生きたことばとして勉強していない、ということです。
「生きたことば」というのは、別にくだけた会話的表現とか、りゅうちょうな話し方というのではありません。英語が音声をともなって使われる現実の言葉である、ということです。「現実の英語」というのは、それを話して生活している人間と国民が現実に存在していて、それなしには一日も全うすることができない言語ということを意味します。つまり、英語はほかのいずれの現実言語の場合と同様に、音声を土台とした言葉であるということです。 (中略) 現実の人間は音声としての言語を口から出して、それによって自分たちの意志を伝え合い、喜怒哀楽の情もこめて生活しているわけです。
このように、現実の言語にとって音声は、それを欠いてしまうと生きることのできないほど重要な要素なのです。そして、日本語でも、英語でも、それぞれの言語には、その言語特有の発音と、その発音を載せてすべらせるリズムとイントネーションがあります。[個々の単語の発音X (リズム+イントネーション)] というものが言語の土台となっている以上、それを無視して、書かれた文字だけに頼って言語を勉強してもことばとしての効果があがらないことは当然すぎるほど当然なことです。

いかにも「オーディオリンガル」の時代を感じさせる文言だと感じるかも知れない。これは、

  • 安田一郎 『NHK続基礎英語 英語の文型と文法 カセットテープ』 (1970年)

のテキストにある「カセットテープの使い方」から抜粋したもの。
ラジオの講座をもとに制作されている、所謂「スピンオフ」の教材であるから、当然の如く、「60年代」の語学教育理論、臨床の知によって支えられている。それでいてなお、ここで安田が説く、音声への拘りには聞くべきもの、見るべきものがある。

  • かつての日本の英語教育では、適切な音声指導がなされておらず、「単語の棒暗記」と「文法訳読」しか行われていなかった。

というような言説が時折、指導者や「有識者」から発せられたりするようだが、それがいかに「無知」に基づくものであるか、少し振り返れば調べられるのだし、年が上の同僚や先輩に訊ねれば、語ってくれると思うのである。

現在の「音読指導」隆盛の中にあって、青木、石井、安田が説くような「音声指導」がきちんとなされているか、今一度、市販されている教材や検定教科書、付属音源を精査してもらえれば幸いである。
このエントリーを準備している間に、ツイッターで回ってきた「話題」に、

  • 日本語の「ん」の表記と音声

がある。私も元ネタの記事 (まとめ) に対する疑義を呟いておいたのだが、その呟きに対して寄せられた「質問」に考えさせられた。
母語である日本語でさえ、自分がどのような身体部位を動かして、どの場所で調音しているのか、という自覚がない人にとって、それを伝えるのは難しいのだ。第二言語では、尚更だろう。教師が音声学の知識を持つだけでは、上手く伝えきれないのだと思う。「音声指導の基礎基本」について、大学での教員養成だけでなく、ベテランの教師が、その「臨床の知」を伝え、共有していくことが求められるのだと思う。

本日のBGM: Born without the words (Denison Witmer)