a memoir

今日は私信。
高校の同窓会関連でメールのやりとりをしていた際に、同期のMariさんから頂いたお便りの最後にこうありました。

  • あなた (=実際にはここには私の名字が書いてあります) が「英語」の魅力に気づいたのはいつ?それは、どうして?どんなきっかけ?高校のときは既に英語ばかり勉強していましたよね。(他の勉強をしている印象がないのです)。ブログを読んでいると、それが知りたくてたまらなくなります。どんなことであれ、情熱をもって取り組んでいる姿は美しい!!つくづくそう思います。くだらない質問ですみません。気が向いたら教えてね。

ということで、今日はMariさんへの返信を。自分自身を振り返る良い機会にもなるでしょう。

私は中学校1年生で英語の勉強を始めてから今に至るまで、塾とか予備校とか専門学校などで英語を学んだ経験は全くありません。
過去ログで少し書いたことがありますが、英語の勉強を本格的にやるようになったのは、中3の秋〜冬。当時、TVでは、『600万ドルの男』や『バイオニック・ジェミー』など、アメリカの人気ドラマをやっていました。私が中3の頃は、丁度『チャーリーズ・エンジェル』の2ndシーズン。当然二カ国語放送などないですから、吹き替えです。『600万ドルの男』リー・メージャースと結婚した初代エンジェルのファラー・フォーセットが番組を退いた後釜として、「妹」という触れ込みで登場した金髪の女優さんに一目惚れしたわけです。その女優さんとは、

  • シェリル・ラッド

ファンレターを書けるくらいの英語力をつけようと思い、中3の時の英語の担当の先生の所にいった時の話しは、こちら(→http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050308) に書きました。これを契機として、学校の教科書を地道に読むのではなく、ラジオの講座で英語の勉強を開始。この当時の講師は東後勝明先生で、当然のことながら大きな影響を受けたのですが、テキストの後半には中尾清秋先生の連載があり、ただ単に「話せる」ということだけではない、英語の奥深さを感じていたのだと思います。ですから、英語の「勉強」の再スタートから中高生用の学参や問題集を使って英語の基礎からコツコツとやり直しという感じではなく、いきなり社会人というか大人向けの英語の世界に飛び込んだと言えるでしょうか。ラジオ講座とはいえ、「それ」に触れてから、基礎の積み直しに戻ったのが今思えば最適解だったのかもしれません。
洋楽に興味を持ちだしたのもこの中学から高校の頃。今は楽器店を営んでいる2歳違いの兄が音楽をやっていたというか、ミュージシャンを目指していたというか、ポール・マッカートニー、財津和男命のような人だったので、兄の聴かないような音楽を求めて、ニッチな領域へ、ということでジャクソン・ブラウンやダン・フォーゲルバーグなどのSSWからパンク・ニューウェーブまで物色している中で、エルビス・コステロの歌詞の世界に取り憑かれたのでしょうね。曲以上に、詞を重視して洋楽を聴くようになりました。深夜放送のオールナイトニッポンで第二部のパーソナリティを務めていた瀬戸龍介の番組は洋楽のヒット曲がよくかかるので毎週聴いていました。時々ライブやプロモーションで来日したミュージシャンがゲストとして招かれ、瀬戸氏が英語でインタビューをするというコーナーがあり、当時「ライブ」でのインタビューは珍しかったので、楽しみに聴き、録音していました。 「人と人との間の化学反応・相性」という意味で用いる “chemistry” は、当時この番組で耳から覚えた語です。
その後、松本道弘氏の唱える「英語道」に嵌って、書籍を買い漁り、TV英語会話のインタビューものもよく見ていました。松本氏がホストを務めていたシリーズは直に終わってしまったように記憶していますが、小林ひろみ先生が出ていたシリーズとの、前後関係の記憶がちょっとはっきりしません。その後、教員になってから、小林先生と教科書の著者としてご一緒することになろうとは思いもしませんでした。当時はビデオデッキなど持つ余裕のない家庭状況でしたから、繰り返し聞けるようにとイヤフォンジャックからカセットデッキの外部入力端子に繋いで録音したものでした。
筑波大のラグビー部に英国人コーチが就いたことを取り上げた回だったでしょうか、そのコーチの言った

  • give your “Gambatte” a clear perspective 「(ただ闇雲に「頑張れ」というのではなく、絵に描いた餅にしないためにも) その『頑張って』にちゃんとした道筋・実体を与え具体化しないといけない。」

というようなフレーズ (今思い出しているので、実際とは少し違うかも知れません) が印象的でした。このことばはその後、スポーツを「本業」とする自分自身を支えることばにもなっています。
高校に進んでからは、松本道弘責任編集というコピーに惹かれ、グロビュー社の英語雑誌『ビジネスビュー』を定期購読したり、T書店で『時事英語研究』などを時々買っては読んでいました。中3の冬に間違って定期購読し始めたTIMEは、Lettersから遡る読みと、映画・音楽・スポーツを、高校・大学とずっと読み続けていました。高3の夏くらいから、少しずつ、Essayが読めるようになっていったと思います。雑誌は札幌に行った時にまとめて買ってくる感じで、月刊誌のPlayboy (洋書) のコラムというかエッセイがただエロティックなだけでなく、意外に文章としてのクオリティが高かったのに驚いたのを今でも覚えています。そこから、National Lampoonなどへと食指を伸ばしましたが、消化不良に終わりました。無駄打ちも随分しています。
ジョン・レノンが暗殺された時に、拙速なメディアとは一線を画して、2週遅れくらいで、丸々別冊のように充実した特集がTIMEで組まれたのをリアルタイムで読んでいて、「一定水準以上の英語ができるようになれば世界と地続きになれる」というような「錯覚」を持ったのでしょう。若気の至りです。
英作文でやっていたことは過去ログ (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050310) でも記してありますが、松本氏の編んだ『日米口語辞典』や最所フミさんの辞書を机に広げて、当時『週刊少年マガジン』連載中の『1、2の三四郎』 (小林まこと) の台詞の英訳をずっと続けていました。(生徒会の印刷物の表紙によく私がマネをして絵を書いていましたが、覚えていますか?)
高校の合格祝いに、ソニーのLL対応ポータブルカセットデッキを買ってもらい、そのデッキを活用してディクテーションをひたすらやっていたわけですが、研究社の『英和大辞典』の第4版も高校に入る時に買ってもらっていてこの英訳の際に、類義語の語感を掴むのに随分役立ちました。高1の冬に『百万人の英語』の英単語を絵で表すコンクールのような企画で入賞した副賞で、三省堂の『コンサイス英英』が当たり、英英辞典を使い始めることに。ところが、英英辞典をどう使うか、余り具体的なイメージが湧かなかったので、高2になる時に、

  • 英語の授業では、日本語を使わずに、全て自分の手持ちの英語でノートを取る。

という無茶なことを自分自身に課していました。決めたのは良いのですが、手持ちの英語で捌ききれるわけもなく、もう少し定義も分かりやすく、用例も充実しているもの、としてLDOCEの初版を買ったのだったと思います。これが、うまいこと嵌りました。
高3の時は「ブロック長」なども務めていましたが、パレードで山車に乗り上半身裸でポーズを取るだけでなく、文化祭では、ブロックの壁新聞の企画も担当していました。「世界と地続きになる」、というのはこの頃からなんとなく目指していたのでしょう。本当は全て英語で書きたかったのですが、大見出しのインパクトのあるところだけ、 “Criminal” (とんでもない!) という語を使いたくて、記事を書いたのを覚えています。読んだ方の皆はとうに忘れてしまったでしょうけれど。
雑誌『翻訳の世界』は毎回応募していましたが、サッパリでした。でも、今の私の英語力を下支えしてくれていると思います。高校3年の時は『工業英語』というテクニカルライティングの雑誌も買って時々投稿していて、一度投書欄に載ったのをM先生が見つけて、職員室に呼び出された時のエピソードは、まだブログに書いていませんでしたね。「職員室に呼び出されるなんて、何かまずいことやったのかな?」と思いきや、

  • よくこんな雑誌読んでるなぁ。

と感心されたのでした。僭越ながら、私の方が、「M先生って、文学とか時事だけじゃなくて、こういうのも読んでいるんだ」と尊敬したものでした。
「英語の勉強している印象しかない」ということですが、Mariさんとはクラス替えの無かった高2、高3で一緒でしたから、確かに一番英語に注力していたように映ったかも知れません。でも、実際に一番好きだった科目は、国語でした。現代文と漢文は我らがS先生の牛乳瓶の底の奥にあるであろう眼力に鍛えられました。古典はT先生。今思い返してもレベルが高かったと思います。教育実習の手続きに大学3年の時に帰省して、高校に行った時には、高3の時の担当だったF先生がまだいらっしゃって、「国語で来るんじゃないのか?」とG大生の私に対して、本当に驚いていたくらいですから。F先生、大学のカリキュラムを調べてもらえればすぐに分かることですが、外国語学部しかないG大では国語の免許は取れなかったんですよ。

ということで、中高での「私と英語」というような返信にはなったかと。
卒業30周年の同窓会ではお目にかかれることを楽しみに待っております。
ごきげんよう。
本日のBGM: ノスタルジア (Tomoyo Harada Live Tour 2010)