But what is at the wrong end of the race?

2008年書き初め。
元日はTV漬け。いわゆる「お笑い」を見たり、伝統芸能を見たり。夜は『相棒』の新春スペシャル。劇場版の公開が待ち遠しい。
昨年(度)は、いくつか自分の実践を世に問うことができた。東京を離れる前に、英授研の新春福袋で「今月の歌」を初めてまとまった形で見せることができたのは自分にとってとても意味のあることだったと思う。田尻先生欠席のピンチヒッターには力不足ではあったが、本多、久保野、蒔田という大御所と席を共にできただけで感慨深いものがあった。
先月の県庁での勉強会でも、この時の資料を見せることができた。その一端をkarishimaさんが自身のブログで紹介してくれている(http://d.hatena.ne.jp/karishima/20080101)。面はゆい気もするが、多くの高校で歌を扱った実践が広がってくれることを願う。繰り返しに堪えることのできる素材・教材として、授業で扱う題材のテーマ性を重視して、自分が聴きつづけてきた曲だけを使っているので、私の実践そのものや、曲目のリスト自体に汎用性はないだろうと思う。
karishimaさんが、「A43枚に打ち込む」といっていたコメント集を過去ログ倉庫(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/200409)に、ワークシートをBoth Sides, Now コメント集(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20040920) の下に画像で貼っておいたので、興味のある方は参照されたし。コメント集は実際にはB4の裏表に印刷するのだが、3頁分にコメントを、最後の1頁は感想や評価に関わる英語の表現力向上のための例文・サンプルとなっている。著作権のこともあるので、活用は慎重に。
karishimaさんは、”teacher’s teacher” などと誉めてくれたが、That’s larger than life. 教えることによって学んでもいるのだとすれば、普段の授業が何よりの学びの場。ただ、一つの学校に長くいて、その学校の看板とか権威とかになってはいけないような気がしていつも動いている。流れているといっても良いかも知れない。持ち上げられたり、担がれたりするのではなく、「えっ、誰、そいつ?」っていうところからいつも出直せる用意をしておこうと思う。すごろくで、上がりの直前に「ふりだしに戻る」となってもそのゲームを楽しめるかどうか。秋山小兵衛を目指すといえば格好良いかも知れないが、いくら無名の無外流の使い手といっても、『剣客商売』そのものが既に1800万部以上を売る大ベストセラーで、原作の池波正太郎は国民的大作家なのだから、安全な株を買っていることに変わりはない。TOMOVSKY的というか、マイナスも呑み込みエネルギーに換える絶対値記号のような姿勢。そういうものを持ち続けていられたらと思う。

英語科における基礎学力について、倫太郎さんのブログで年末に良い記事が出ていた。熊本の前田康裕先生のブログでも、協同学習について質の高い考察が読める。教室での学習が学習となっているか、個人の学びが保証されているか、教師に求められる自問自答である。
受験生に対して、基礎ができていないから中学のレベルに戻ってやり直しなさい、ということの無責任さを指摘したのは今は亡き伊藤和夫氏だった。それはそうだろう、その英語の基礎が全くできていない高校生だって、中学で授業を受けてきて今があるのだから。伊藤氏は、

  • 現在の中学校の教科書を知りもせず、何を、どのようにやり直せば、基礎からやり直したことになるのかを示さない高校の英語教師

を痛烈に批判してくれていた。今、現在の英語教室はどうだろう?そんな英語教室はもう存在しなくなっただろうか?受験英語や旧来の学校英語を批判してきた英語教育人も、受験英語を極めることで英語教師としてのスキルを磨き、それを「英語教授法」と称してきた人も、大学入試で英語が課されなくなる日に備えて、「ふりだしに戻る」覚悟をしておいた方がいいのではないかと思う。
何をどのようにどれだけやれば、「ちゃんと」やったことになるのか。学習観の見直しと再整備が不十分なまま、新しい教授法や理論を移入・注入してきたツケがいま出ているのではないのか。
少し長いが、私が教師になりたての頃読んでいた本より引用したい。

  • 毎日の授業において、「前段階として」やらなければならないことは数多くある。単語を読むこと、音と綴りの関係を学ぶこと、一語・一句の意味をつかむこと、過去形をつくること、文を書き換えること、文と文をつなぐことなど。これらの活動が、言語活動でないとするならば何なのか。/このように、指導要領には、いわゆる遅れがちな子供たちと毎日悪戦苦闘している教師達に何も答えないばかりか、上に述べたような諸活動を切り捨て、学ぶ意欲を奪おうとしている。それは、言語活動の概念規定が誤りだからである。指導要領の言語活動は、言語を使う個人の心理的・認識的・行動的側面にほとんど注目しないかまったく無視している。(中略)指導要領に示されている言語材料は、結局、単語と文法事項の羅列に過ぎない。/言語学でみられた「言語」「言語活動」の概念は、指導要領で「言語材料」「言語活動」に変わった。この用語の変更によって英語教育の本質的なものが骨抜きにされた。それは、「言語材料」が言語活動を行う際の素材の羅列にすぎないのに対し、「言語」が関連のある語彙・規則の体系だからである。/「言語材料」ではなく「言語」こそが、後に述べる主体的言語活動を裏付けるものである。そして「言語」は学習・指導されなければならないというのが私の主張である。(早川勇「英語教育における『言語』と『言語活動』」、『英文法の新しい考え方学び方 日英比較を中心に 増補新訂版』三友社出版、1985年)

次回改訂される指導要領には具体的な到達度目標や発達段階の指標が示されるのだろうか? だとすれば、1990年のThreshold levelの記述のように、言語材料の扱いは根本から見直す必要が出てくるだろう。そのためにも、いろいろなところで動きを見せているCan-do statement作成を一過性のブームに終わらせてはならない。良識ある英語教育学者と、市井の英語教師の健闘を祈りつつ、まずは自分の目の前の課題の10%解決に手をつけたいと思う。

本日のBGM: 生命の河(よしだよしこ/ファーストアルバム『ここから』より)