『暮しの手帖』

今日も朝から本業。スタートを若干遅らせたので、かなり陽射しが厳しい中での練習となった。乗艇ではひたすら両舷での腕漕ぎ。緩ませないこと、と加速させて自分が艇に与えたスピードでハンズすることのみを徹底。兆しは見えるのだが、覚悟が足りない。午後は、エルゴでスライドピラミッドでのトレーニング。ダンパー操作で、スピード感覚の刷り込み。ラストは鉄棒。懸垂も満足にできず、ハンギングレッグレイズも満足にできない体力に唖然とするも、ここからスタートするしかないのだから、鍛えるまでだ。

  • ケンタロウのカレーライス

という表紙の文字に惹かれ、『暮しの手帖』8・9月号を購入。小林カツ代はもう元気になったのだろうか?

  • ていねいでわかりやすく、誰でもまちがいなくできる料理記事は「暮らしの手帖」のよき伝統である。(p.93)

という自己評価の言葉に日本の英語教育の伝統を重ねてみる。達人・鉄人の料理ではなく、日々の暮らしの中での料理にあたるものは何か?何を「よき伝統」として継承しているか?

しばらく読んでいなかった雑誌だが、連載記事の中に阿久悠の「日本人らしい人8/凛とした女の子におなりなさい」を見つける。時期的には、これが遺稿の1つになろうか。8とあれば、1から7までも読んでみたくなるものだ。読ませる工夫など至る所に転がっている。

  • 「凛とした女の子」で日本人女性の著名人で誰を連想するか?

などとすれば、ライティングのdescriptive passageの練習にもなろうか?私の連想では、緒川たまきあたりか。彼女は今はどうしているのだろう?
常盤新平の「ニューヨーカー・ニューヨーカー」(p.160)など、「へぇ〜っ」という連載(?)記事もある。知らないことは多いものだ。

  • 「ニューヨーカー」の何が好きかと問われれば、その一つはこういう記事だと言いたい。ミシュラの読み物は十ページと長いが、それを感じさせぬ話術巧みで、読んでいて楽しかった。

という記述の、「話術巧みで」という部分に妙に引っかかる。常磐はこの語を純粋に名詞として使っているのだろうなぁ。自分なら「(感じさせぬ程)話術巧みで」とか「話術の巧みさで」とでもしてしまうところだ。
もうすでに花森ワールドとは呼べない雑誌ではあるが、それでも「原案」や「イラスト」「カット」などそこここに花森安治は顔を覗かせている。雰囲気といおうか佇まいといおうか、書体・フォント・縦書きだけではない何か。
徒にセンセーションを企てなくとも、

  • すぐには役に立たないように見えても/やがて こころの底ふかく沈んで/いつか あなたの暮らし方を変えてしまう

ことにこの雑誌は誇りを持ち続けたいのだろう。

『暮しの手帖』が今でも読み継がれているのは、それが地に足のついた「暮らし」を扱っているから。裏を返せば、そういう「暮らし」に価値を見いだす人にしか読み継がれないということでもある。英語教育の扱うべき「英語」もいつの日か「暮らし」と成りうるのだろうか?
私の英語教育にまつわる言説も、

  • 反時代的だけど、しかし着実に実践を見ている

と評してくれる人がいる間は続けていこうと思う。
夜半に激しい雷雨。目を覚ます地響き。夜を引き裂く音。
慌ててベランダの洗濯物をこむ。
この雨で湖の水位も持ち直すか?

本日のBGM: 真夏の夜の事 (初恋の嵐)