Frequently Threatened Confidence

朝から本業。チーム自体はオフの日だが、一人自主練する選手を見る。その後、日本代表の第一次選考に残ったチーム所属選手の練習をGMと見学。合宿中は代表コーチに預けるので、口出しは御法度。今日はアテネ五輪代表選手を相手に相当に負荷の高いメニューを良くこなしていた。頑張って欲しい。昼は、同様に代表候補のK選手も一緒に蕨へ餃子を食べに行く。満腹。午後はオフ。
帰宅後、25日のFTCに向け、ついにというか、勇気を出してというか、ベランダストッカーを開けて、昔の資料を引っ張り出してみた。
生徒の音読を録音したテープがいっぱい。ライティングのドラフトなどのワークシートのコピーだけで相当な量。昔の「表現ノート」、というよりまだプロトタイプのころのもの。教材研究で使っていたノート、などなど。これは私以外にはほとんど意味がないなぁ。
『現代英語教育』(研究社出版)。比較的新しいもの、といっても10年近く前の号が数冊取ってあった。
当時連載されていた、金谷憲氏の「英語教育ひとりごと」から。

  • トップダウンにしても、トップを得るにはどうしたらよいのかはっきりしない。文章のタイトルから内容が想像できるではないかという意見を聞くと、わかったような気がするものの、そのタイトルを読んで意味を理解するのはボトムアップではないのかというつまらない疑問が押さえられない。文章のアウトラインだけザッと最初に目を通すのだと言われればそれはよいと思うが、その「ザッと」目を通すときの読み方はボトムアップなのかなと思ってしまう。(『現代英語教育』1997年8月号)

この考え方はずっと自分の授業の根幹にある。
この号は中村敬氏の「私が反・英語帝国主義論者になるまで:ある英語教師の40年の物語」、伊村元道氏の「日本人と英語:福原麟太郎の『机はまん中にある』」などなど再読の価値のある記事が多い。
昭和62年(1987年)度の定期考査も取ってあった。この年は教員2年目か。青いなぁ。「タマゴの殻がまだケツから離れない」(『剣客商売』より) 感じ。日本語訳を一切排除しているが、パラレルな素材にまでは踏み込めていない。ただ感心なのは、多肢選択式の出題は全て弁別係数を取っていること。エクセルなんかない頃によくやっていたとは思うが、この頃は教師を辞めたくてしょうがなかった頃だ。大学で学んだ「英語教育」と現場とのギャップで無力感に苛まれていた。職場の先輩のW先生に、飲み会でよく愚痴を吐いていたのを思い出す。若手教師を支え育てる先輩教師がいてくれることに気づいたのが続けられた要因。
授業で使っていたハンドアウトやワークシートもこの頃のものをFTCでは持っていこうと思う。若手の教員にはその方がつっこみどころがあっていいだろう。私は恥ずかしいけど。
旧課程の「英語IIB」の教科書のTMもあった。開拓社のSwan。以前、久保野雅史先生と盛り上がったのだが、これは名著だったと思う。現行の教科書よりよほど潔い。一方、自分の書いた三省堂Dream Maker(初版)のTMが見あたらない。この頃はWBDとでたばかりのBBCの辞書を使って教材研究をしていたので、BBCからの例文の引用がとても多かったはずなのだが、確認できず。このBBCの辞書も異動の時に、当時の同僚か卒業生にあげちゃったんだよなぁ。古書店でもあまり見ないので、どこかで見かけた方はお知らせ下さい。音源は、Speak & Write Better(東京書籍)のカセット。What’s New?の初版のカセットもあったはずなのだが見あたらず。これはナチュラルスピードにこだわったり、子供の声には子供の声優を使ったりと、「おもしろい」音源だった気がする。
今日出て来た中で一番古いのはNHKラジオ英語会話のテキストのスクラップ。1979年の4月号から6月号、1981年の4月号から8月号までの東後先生の巻頭エッセイだけを切り取ってある。幾たびかの引っ越しを生き延びたのはこれだけ。英語と日本語の両方で書かれたもの。79年と言えば私は高校1年生だ。ちなみに81年の8月号はTypes of English「いろいろなタイプの英語」。これは良く覚えている。formal/ poorの二項対立だけでなく、good informal という範疇を取り上げ、講座の趣旨を説明しており、この考え方は新鮮であり納得のいくものであった。この講座との出会いがなければ今の私はないわけで、読み返すと感慨深い。
木曜までにいいものが見つかったらあまり重くならない程度に持っていきます。こんなことが聞きたい、というご質問をメールでどうぞ。
夜はG+でNOAH。武道館。森嶋タイトル奪取成らず。残念。社長強し。
本日のBGM: So far (Rotten Hats)