「残念だ…」

このブログのタイトルにもある本業で山口県は宇部市へと行ってきました。
飛行機の中で読もうと持っていった『小説修行』小島信夫・保坂和志(朝日新聞社, 2001年)は読めば読むほど悩みの渦へ。自分が理解していたと思っていた小島像が崩れていき、小島のことを誰よりも理解しているのではないかと思える保坂に対する嫉妬心のような感情も沸き立ってくる往復書簡であった。わからなさ加減もここに極まれりという感じではあるが、フィクションを生き直すには優れたテキストではあると思う。もう少ししたらまた読んでみよう。
家に帰ると、ジャンクメールが47通と、語研の講習会の受講者アンケートが届いていた。
消化不良の方が数名おられたのだが、そのうちの一例を紹介し、その声に対する私の回答のようなものを記しておきたい。

  • おっしゃることはわかるのですが、講演として資料と話す内容をもう少しまとめてほしかった。また内容がfast learnerには良いとは思うが、それ以外の大部分の生徒には少ししんどいように思いました。英作文に関する造形(ママ)の深い方だと思うので、もう少し現場に即した(どの時期に、何を、どのように指導するか)ということを話してほしかった。

若い方なのでしょうか?「わかる」ことと「受け入れる」ということの違いを端的に示すアンケートですね。「おっしゃることはわかるのですが…」とくれば、「でも納得はしていないし、言うことは聞かないぞ」という反応であることがほとんどです。和文英訳からの脱却だけを話しても、ライティング指導を語ったことにはならないし、プリライティング活動だけを示したところで、どのように生徒のプロダクトが発達するのかは見えにくいものです。今回は、ライティングの地平を見渡すための講座でしたので、大多数の英語教師がいる足場よりも少し高いところから果てしない地平を眺めてみたわけです。ほとんどの方が足を踏み入れたことのない地平、または見たことのない地平線が遙か彼方まで続いている時に、「地平線の果てしなさ感にめげそうになるので、どこかキリのいいところまでの地図を示してほしい」と言われても、私は「地図を継ぎ接ぎしていっても現地までのリアリティーは得られませんよ」と答えるしかないのです。「しんどい」と思われたのなら、その「しんどさ」こそがリアリティーなのです。そこを自分で受け入れるところからしか新たな実践は始まらないと思います。「現場に即した」ものをという要望ですが、今回示したのは正に「私の対峙している『現場』」です。今回は、私が、私の現場でどの時期に、何を、どのように指導したか、を示したわけです。厳しい言い方になりますが、私には私の現場があり、あなたにはあなたの現場があるのです。どの現場、誰にでも当てはまる最大公約数を抽出して提示したとしても、結局は同じ感想を持たれたのではないかと思います。私のこれまでの研究成果として得られた、疑似客観的な内容をもっともらしく説くのではなく、徹頭徹尾、自分の実践のみで迫ったつもりです。ことさら自他の違いを意識するのではなく、例えば、大きさ、面積は異なれども「相似形である」ということを感じ取ることこそがこのような研修会での健康的な消化吸収の仕方ではないか、と思います。結局問われているのは、あなたの立脚点がどこにあり、あなたの視点はどこを向いているかということで、その問いに気付きさえすれば、今回の資料の中にその答えは含まれていることがわかるはずです。私にできることはこの辺までで、後は次に続く人が、自分の現場でできることを積み重ねていってくれることを期待します。
『小説修行』の中にこんな一節がある。

  • 新しい世界観や人間観はいつの時代にも現れる。私が年をとったときに若い人が私に向かって、私が小島先生に言ったようなことを言ってきたとしたら、私も小島先生と同じ返事をするだろう。そしてもしそのときに「残念だ」と思われたとしたら、「残念だ」と思われることがすでにじゅうぶんに価値のある何ものかなのだ。(保坂和志→小島信夫、p. 171)

明日は英授研です。