読めなければ書けない

研究会、ワークショップ、講習会から解放され、少し頭が冴えてきたので、読解について少し書いておこうと思う。「読まずに書けるか」と語研で息巻いたが、この過去ログで直接該当するのは、次の2つだろうか?

こういう時にブログは便利だなあ。この2つの記事は、

  • 西林 克彦 著 (1997)『「わかる」のしくみ;「わかったつもり」からの脱出』新曜社

を下敷きにしたもので、98年くらいに高校生用に作った教材と、授業用のハンドアウトで書いていたものに少々手を入れ、問いかけてみた。その後、同著者により2005年に

  • 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 』光文社新書

が出ているので、西林氏の著作は結構読まれているのではないかと思うのだが、英語教師はあまり関心がないのだろうか?
英語教育に於ける読解系解説書というと、次の書籍あたりが今風な「リーディング指導」の裏付けを与えているのではないだろうか?

  • 高梨康雄・卯城祐司編 (2000)『英語リーディング事典』研究社
  • 門田修平・野呂忠司編 (2001)『英語リーディングの認知メカニズム』くろしお出版
  • 津田塾大学言語文化研究所読解研究グループ編 (1992)『学習者中心の英語読解指導』大修館書店
  • 同編 (2002)『英文読解のプロセスと指導』大修館書店

これら今風の本とかなり性格を異にするのが、

  • 田鍋薫『英文読解のプロセスの指導』渓水社(2000)

大修館の本とは一字違い。(この田鍋氏の本は、過去ログ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050301 で紹介しているのでそちらも参照して頂きたい。)
私は断然田鍋派である。西林派といっても良いかもしれない。訳読・遅読が批判されるとすれば、それはbottom-bottomの読みで終わっていて、いつまで経ってもtopへとたどり着けないから、統一した主題へと突き抜けてくれないからである。今はやりの「和訳先渡し…」の手法がreadingで用いられるとするならば、学習者はいつ「部分の記述から統一文脈を引き出す」訓練をするのか?最近はチャンキングの利点ばかりがもてはやされているが、なぜチャンクに区切って情報処理をしても「腑に落ちないのか」という部分をクリアーしない限り、精読を超えたことにはならない。
「読めない」という時に、そのほとんどは、語彙と文法(統語処理でも構文解析でも好きな呼び方でどうぞ)が自分のものになっていないために、使いこなせていないからである。
「自動化」と言うのは簡単だが、どうやったら多種多様な文法構造を自動化できるのか?成熟した語彙を使いこなせるのか?
例えば、英文を読む時、日本語で同じレベル、またはより高いレベルの「足場」を構築できている学習者は、読み手として自分が作り上げたスキーマが、書き手のスキーマに重なるか包括するわけだから、「読めた」と思える「話型」とでもいうものを自分の中から引っ張り出してくることが可能なわけである。それは英語を読んでいるのではなくて、自分の中にプールした、または再構築した「意味」を読んでいるだけではないのか?
では本当にその英語が読めているのか?その英語は自分のものになっているのか?
「意味は読めたけれども、英語は6割くらいしか自分のものになっていない」とか「いやこのレベルの英文であれば100%自分のものとして取り込んでいる」、というような、ぐずぐず、どろどろした作業が教室での読解の訓練ではないのか?
その意味では、中学高校、塾や予備校も含めて、教師の指導法、学習者の読解方法を文法訳読などと十把一絡げにするのはまずかろう。
今風の指導に適した教材で、今風の指導を受けているのに、なぜTOEFL(R)のレベルの英文読解ができないのか?一字一句に囚われ、逐語訳をしているから?それは嘘だろう?読むスピードが遅いから?
現象としてそれは正しい。では、なぜ遅いのか?
TOEFL(R)のリーディングセクションが時間切れになる、という人は、センター試験の問題ならはじめから順に解いていって最後の物語・随想の読解問題まで時間内に終わるのだろうか?ICUの読解問題であればスラスラ読めるだろうか?慶応のSFCの問題は大丈夫だろうか?では東大後期文系の読解問題はどうだろうか?では京大の和訳問題で出される英文はスラスラ読めるのだろうか?
学習者はどこかでハードルが高いと感じているはずなのである。とすれば、教師の仕事は?

  1. 跳躍力そのものを鍛える
  2. その前にもっと低いハードルをたくさん跳ばせて、「跳べた!」感を高めて、ハードルを越える技術を鍛える
  3. とりあえず補助をして跳ばせてあげる

あなたなら、どれを選ぶだろうか?
書くために読むのであれば、その選択は生命線である。