Still waters run deep.

少し古い話になるかもしれないが、ヘラルド・トリビューンで紹介されている、
Commentary: U.S. students need more math, not Mandarin
By Andy Mukherjee Bloomberg News MONDAY, JANUARY 23, 2006
に対して、ACTFLの代表がコメントを表明していたのを目にした。(どちらも、ACTFLのサイトから読むことができます。→ http://www.actfl.org/i4a/pages/index.cfm?pageid=4262
アメリカ合州国の「世間」における外国語の位置づけを垣間見た気がする。
今風の英語教育(外国語教育)を志すとすれば、ACTFLの提唱するさまざまな原理原則は素通りすることができない。(到達目標(技能)の具体化の観点でCommon European Frameworkが現在注目を浴びているが、それとて、ACTFLの示してきた能力指標やCanadian Language Benchmarksの成果を抜きにしては語れないのだから。)
そんな世界の語学教育をリードするACTFLが編集者へのお手紙(反論?)を自前のサイトで紹介するという形でしかコメントしないのが残念である。これでは「世間」への影響力という点で日本とそれ程変わらないのではないのか?
『英語青年』(4月号)特集の靜哲人氏の主張がMIXIで話題になっているらしい。私はアクセスできないので残念である。どれほどの人が実際に誌面に目を通しているか、それを受けて、どれほどの人が真意を読み取れているか、非常に気がかりである。私個人としては、「振り子を振っておくことも大切」と思っているので、今回の靜氏の主張はもっと過激な物言いでも良かったのではと思うくらいである。今のところ、中高の若手教員は「その振り子につられて振れつつある状態」であり、「つられたくない、振れていきたくない」派がまだまだ多いというところなのだろうか。
例えば、靜氏が『STEP英語情報』で連載していた、「テストで伸ばす英語力」の第1回では、テスト理論・実践に関して「海外の理論が役に立たない理由」として、極めて良質の主張を行っている。ここでの発言は、今回の『英語青年』での発言と底流でつながるはずである。中高教員で「靜流」に弟子入りしたいと思う人たちは、今目にしている川面だけでなく、源流を確かめることも必要だろう。
靜氏の発言を少し溯ってみよう。
『現代英語教育』(研究社)1999年3月号の特集「21世紀英語教育への遺言」に寄せて、靜氏は「必要性と習熟度:テキヤのニイチャンに学ぶ」として、次のように述べていた。

  • 「ある国の国民の外国語習熟度のレベルは、その国民がその外国語を必要とする平均レベルの関数である。国の政治的統一の上で外国語が不可欠であったり、大学教育が外国語でしか受けられなかったり、国民ひとりひとりが、外国語を使って商売できなければ外貨を稼ぐにも困る、というように、必要レベルの高い国では、当然習熟度レベルは高くなる。これに対して、外国語を学ぶ必然性がほぼゼロといっていいアメリカの、国民の平均外国語習熟度は限りなくゼロに近い。外国語学習方法論の研究は世界一進んでいるはずのアメリカの国民の外国語レベルが最低なのは、問題が方法論にないことの証明である。」

このような言説を、「だからコミュニケーション一辺倒ではなく、英文和訳、和文英訳、文法・構文をやっておかなければダメなのではないか!」と自己保身にしか使えない英語教育関係者では困る。

  • 教室の外に必要性がないから、学習者は本気でやらないのであれば、教室の中に必然性を作り出すしかないだろう。
  • テストは、教室の中に必然性を作り出すのに最も有効である。

という共通基盤に立った上で、靜氏の主張を受けとめなければ、健全な議論にはならないだろう。
私はやはり、「教室内に外界の言語環境を取り入れることによって必然性を作り出そう」という方法論にはあまり頷けないし、テストで必然性を作り出すというのも「方法論」の一つだと考えている。ただ、テストの方法を変えれば、必然的に教え方(その合わせ鏡としての学び方)が変わるというのは真理であると思っている。
英語教育の世界では、さまざまな掛け声が飛び交うのだが、その声に潜むモダリティとでもいうべき要素を感じるアンテナを持っておきたいものである。
見た目が静かでもその奥は極めて激しい流れなのである。