Do I have to go native?

高2「英詩と過ごす夏2005」収録も半分終了。ビデオ収録の合間に生徒に与える課題でスポーツネタを扱っているのだが、 Dick Fosburyの話を読ませ、跳び方の図解を描かせてみたら、意外にできていなかった。背面跳びは描けても、はさみ跳びが描きにくいのだとか。あと、ボート競技に使うボートやオールの長さには興味を持っていた模様。あと2回で、全員収録。ということはあと2回分は課題を用意しなければ…。
高3は、descriptive passageの課題。例によって、CUBINGを導入。このアイデアジェネレーションの手法も使い始めて12,3年になるだろうか。2学期中間までの大きなネタは「日本独特の事物を紹介する」課題で、寿司、箸、七五三のモデル文に続いて、「福袋」を説明するもの。ほとんどの和英辞典や、日本を紹介する事典にはエントリーがないので、描写や定義を考えるのには効果的なネタであり、もう10年くらい書かせている。20分で1st draftを書き、続いてPeer responseまで。Peer responseは、comparison/contrastの観点で一人、analysis/classificationの観点で一人、そしてapplicationの観点で一人、と原稿を読んだ3人から別な情報をfeedbackしてもらう。全員が同じ課題で英文を書いているので、3人分原稿を読む中で、運がよければ、自分の思いつかなかった語彙・コロケーションに遭遇したり、より適切な文構造に遭遇したりという発見・恩恵がある。自分より英語力の劣る学習者の原稿を読む際にも、「ここがわからないけれど、どうすれば致命傷にならなくて済むだろうか?」と考えられれば、習熟度の高い学習者も意欲的にpeer responseに取り組ませることができる。そのためにも、普段、教授者がどのようなguidanceやfeedbackを与えて、英文を産出させているかは大事である。ストラテジーの改善だけをいくら頑張っても作文の質がすぐ上がるわけではない。産出される英文はlexical knowledgeによってキャップをはめられているという単純な事実から目を背けることのないように自戒したい。
さて、『ネイティブスピーカとは誰のことか』という本を探しているのだが、どこかにいってしまって見つからない。整理整頓は大切です。
最近の(といっていつ頃からなのか?)日本人が頻用する「ネイティブ」というカタカナ語はmisleadingである。彼らの意図するのは ほとんどの場合、native speakers of Englishのことである。私自身は、現在のところ英語関係の話題では「英語ネイティブ」という言葉をつかうことはあるが、「ネイティブ」単独で、native speakers of Englishの意味で使うことはない。
英語を専門とする人や熟達した英語運用者は、「本来の英語ではnative speakers of Englishというべきところを、『ネイティブ』と言ってしまうと、Native Americansのことと解釈されるおそれがあるので注意しましょう。」というくらいのことは指摘してくれる。私が問題とするのはその先である。
「アメリカ人の前で『ネイティブ』というと、『ネイティブアメリカン』のことだと思われて、笑われる」とか、「日本人が『ネイティブ』というのを聞くにつけ『裸の土人』を連想して困る」などという感性こそが問題なのである。先日も、ある英語関係のブログで、その趣旨の指摘をしたのだが、あまり歓迎されなかった。「うるさいことをいう人」などというコメントがなされたりすると、怒りさえ通り越して悲しくなる。問題の所在は、潜在する偏見と、言葉の不正確な理解の両方なのである。
ちなみに、飛田茂雄編著『探検する英和辞典』(草思社)には、エントリーの中にAmerican Indian(pp.10-11)、Native American(p.192)、の双方が収録されていて、この用語に関する重要な指摘がなされている。American Indianという語を誇りを持って用いている人、その語には蔑視が含まれるとする人、「合州国」に生まれた人はみな、native Americansなのだ、という人、など、どの視点・立脚点に立つかよって浮かんでくる問題は異なることまでわかるように書かれている。
また、nativeを名詞で用いる場合でも、アメリカの学習辞書であるWBD(1986年版)では、第一義として、 a person born in a certain place or countryをあげ、用例に Many natives of the United States have moved to Israel to become citizens. を示している。(p.1383)
本日のブログ標題の go nativeというイディオムにしても、以前は、白人優位の視点で、to live as the less civilized natives do (WBD、1986)のように、less civilizedという意味を多分に含んでいたものが、最近では、humorousな使い方ではあるものの、to try to live and behave like the local people (OALD、6th、2000)、や(of a person living away from their own country or region) abandon one's own culture, customs, or way of life and adopt those of the country or region one is living in (NODE, 1st, 1998) というように、differentであるという意味が前面に出てくるようになっている。
ことばが生き物だとすれば、その取り扱いには責任が伴うだろう。
可愛い動物をペットにする行動にも責任が伴うのは当然である。
ならば、ことばの教師の持つ責任は世間が感じている以上に重い。