健全な批評精神のために

 私もブログで情報発信を始めて3ヶ月くらいになるが、英語教師、英語教育研究者のサイトやブログを覗いてみると、首をかしげたくなるものも散見される。ネチケット以前の、健全な議論や批評ができない人もいるらしいので、あまりトラックバックなどをしないようにしているのだが、「日本の英語教育の方法論は間違っている。なぜなら現段階で成果を上げていないから。英米等のTESOL/TEFLの方法論を日本に導入・普及させることを阻もうとする日本の英語教師や英語教育学会こそ諸悪の根元である。」というような論調は看過できない。
 「小学生くらいで、英語の音声を導入し、日本語を介さないmental lexiconが構築されたのに、中学校での英語教育によって、その英語によるmental lexiconが破壊されることが問題だ」などというとらえ方には、衝撃を受けた。日本語による生活環境を何だと考えているのだろうか。日本語を使用しているときには日本語のmental lexiconによって言語の処理がなされているのであるから、問題は、常に日本語のmental lexiconに変換することでしか処理できないようなタスク「のみ」を課すことであって、日本語の使用そのものでは決してないのである。化石化(=fossilization)に関しても、週3時間のformal schoolingでの英語学習でどの程度の化石化が起こるのか、というリサーチは寡聞にして知らないのが正直なところである。(情報をお持ちの方はお知らせ下さい)
 最近の若い英語教師は、KrashenやSwain, Ellis 以降の英語教育に関する理論には詳しいものの、PalmerやFriesについては知らないという話をよく聞く。ましてや、日本の英語教育に携わった先達の名前は目にしたことがないという人も多いのだろう。先日も、K先生が「村井知至の名前が読めなかったり、斎藤秀三郎を『しゅうざぶろう』と読んだり」してしまう大学院生の話をしていた。
 自分の学びたい師を求めて、研究できる環境を求めて海外で学び・研究することは素晴らしいことだが、日本における外国語教育(このブログでは英語教育に特化しているわけだが)の現状を充分に把握せず、自分の学習者としての印象批評でのみ、観念的、定性的に批判をする態度は慎しむべきであろう、と自戒の意味も含めて言っておきたい。国内の英語教育状況や歴史的背景に関しては、まずは、語研(語学教育研究所)の研修会や日本英語教育史学会の例会に参加してみてはどうだろうか。
 少なくとも、英国の外国語教育においては、ラテン語の重要性等もあり、20世紀初頭まで、体系的な学校教育での外国語教授法は整備されてこなかった。大きな影響を与えたのが、Palmerの著作である。(学習用の辞書に関しても同様に、いやそれ以上に大きな貢献をしていることが、A.P.Cowie (1999), English dictionaries for Foreign Learners: A History, Oxford、にも記されている。)日本での外国語教育の経験と考察、研究の成果が、今の外国語教育の底流を形成しているという見方さえできるかもしれないのである。National Curriculum以降の最近の英国の状況を踏まえた考察・論考では、Kit Field 編著による、Issues in Modern Foreign Languages Teaching, Routledge, 2000が詳しい。冒頭で Norbert PachlerがRe-examining communicative language teaching という概論を寄せており、「海外の外国語教育ではXXが主流である」という過度の一般化が危険であることも教えてくれる。
 外から、新たな知見を導入し、旧態然とした体制に変革を迫る、という図式は今に始まったことではない。さらに、その変革の試みが、全国的に総じて見ればそれほど功を奏していないことも、今に始まったことではない。 中高の教員が、自ら健全な批評精神を持ち、かつ自信を持って授業を続けること、そこからしか突破口は開けないと信じている。