テストについて

これまでに、公立、私立と4校で19年英語を教えてきたが、「テスト」の扱いは学校により千差万別である。
一般論として、学校全体の評価システムが整備されているところが増えてきただろうが、これは、「教務」のシステムが整備されているだけで、「教科」上のシステムの整備を必ずしも意味しない。「教科」として考えた場合も、現実には、テスティング理論の前に、「統一進度」「統一テスト」「統一評価基準」といった「教科内教務システム」とでもいうべき諸条件をクリアーしなければならない。
例えば、「定期考査の平均点をXX点程度として作成するものとする」などという内規があるとしよう。多くの場合は、素点を100点満点に換算した上で、問題の難易度の調整に頭を痛めることになるのではないだろうか?そんなことでくよくよ悩むのはやめてしまえ、と声を大にして言いたい。
平均点で悩むのなら、配点をオープン(=未設定)にして、生徒の出来を見てから、教務上要求される平均点となるように、配点を決めて成績処理すればよい。定期考査の作問(コンストラクトデザイン)で最も大切なのは、シラバスで示した「英語力」とその「構成要素」「技能」をテストしているかということであり、平均点に縛られるのは精神衛生上も良くない。生徒によく話すのは、「北海道の田舎の分校で、生徒が3人しかいないクラスを考えてくれ。今回のテストの平均点は50点だった。一人は100点、一人は0点、もう一人は欠席。この場合、平均点の50点は、一人一人の生徒にほとんど意味を持たない。平均点ではなく、自分の出来具合そのものを振り返ることが必要だ」という比喩である。
では、どうすれば生徒一人一人に意味のあるレポートを返せるのか?
若手教員の多くはそうなのであろうが、20代前半の私は理想論が先行し頭でっかちだったこともあり、定期考査の出題の80%以上を客観式設問(多肢選択式)として、毎回、設問ごとに全体正答率、上位・中位・下位ごとの正答率、誤答率、弁別係数を算出し、記録をつけ、生徒へのフィードバックとともに、自分の作問の評価をしていた。生徒へのフィードバックといえば聞こえはいいが、できない生徒にしてみれば「こういう結果になっているんだよ」という事実を突きつけられ、「どこからどうみても私は英語ができないんだ」「他の人がみんな分かっているものが私は分かっていないんだ」という救いようのない現実へと追い込んでいたともいえるわけである。今振り返れば、完全に自己満足の世界である。教師としてその数年間の経験が無駄だったとは言わないが、今ではテストに対する意識は相当に柔軟になっている。
たとえば、いわゆる「総合問題」へのスタンス。
入試問題などに見られる、いわゆる「総合問題」に対する批判(「テスティングポイントが曖昧だ」など)がある程度行き渡ることによって、単一技能至上主義的なテスト観が趨勢を占めているような印象を受けることがある。が、この観点は今一度見直す必要があるのではないか。「見直す」というのは、何も否定するということではない。全ての技能が必ずしも直接測定できないのは、言語能力が少なからずハイブリッドな技能によって支えられていることを示している。定期考査においてハイブリッドな設問を可能な限り排除し、単一技能のテスト項目だけにしてしまうと、測定しやすい技能のみを測定し、パフォーマンスを支える、現実のスキルに近いハイブリッドな要因からは常に距離を置くことになるのではないか、という疑問を頭の隅に置いておいて欲しいのである。当然、パフォーマンスを支えるハイブリッドな技能は、「観察」によって評価している、というのであれば、それはそれでよいだろう。問題なのは、「べき論」が優先し、自分のおかれている現状・現実を無視した評価法を盲目的に導入することである。
10数年をかけて、私のテストに対する姿勢が柔軟になってきた背景には、ライティング指導をしてきたことが大きい。数量化・計量化できるものだけでは分からない、生徒のプロファイルがライティングの授業ではモニターできるのである。定期考査を全くやらずに、毎回英文を書かせ、ポートフォリオとカンファレンスだけで評価をしていた時期もあった。正解の英文がはじめから存在する問題で英語を書かせるのではなく、生徒が自分の英語を作り上げていく手助けとなるように、指導と評価をリンクさせる。ライティングの授業にはその力がある。裏を返せば、その力の内在しない授業は、すくなくとも私にとって、ライティングの授業としての魅力が乏しいのである。