どうせなら懺悔でも慚愧でもなくザンギで

中間試験。なかなか手強い。
いや私の試験ではなく、試験での生徒の出来具合が。この学校に入学して、中学校時代とは違って、各教科とも、充実した指導を受け、普段の授業中の内容理解、問題演習、応用実地のパフォーマンスなど格段の進歩を遂げてきたという「現実」を忘れて、「勉強が苦手だった過去の自分」に戻ってしまうケースをたびたび見てきた。テストになると、「不安」や「追い込まれた感」や「危機感」を感じるのだろうとは思うが、それらのストレスの素と折り合いを付けられる踊り場まで自分を運びきることが出来ず、テストになると振り出しに戻ってばかりいるような感じ。テストの度に反省や後悔を繰り返しても自信に繋がらないのは分かっているはず。どうしたものか。ある種の「覚悟」が必要なことは確か。
私の作問も今回は計6種類。
期末は、これに加えて高2のReadingが入るので、計7種類。どのコマも1クラスなので、全て自作。公立校勤務時代にやった経験があるとは言え、毎回毎回は結構大変な思いをします。
ご褒美という訳ではありませんが、夕飯は私の我が儘で「ザンギ」に。無理を言って懐かしい味を再現してもらいました。

さて、
FBで「詳細は、ブログに書く予定」と言っていた、大修館書店の『英語教育』6月号の特集。

  • 「新課程で育てる英語で表現する力」

執筆陣に期待が大きかっただけに、物足りなさ感も大きなものとなりました。
まず、特集記事の最初が、文科省の平木裕氏 (教育課程調査官) というのはどうなんでしょうか?この大修館書店の雑誌は文科省の機関誌ではないはずです。御上から下々へ、というためには、民間の雑誌媒体ではなく、各地の指導主事への「伝達講習会」が用意されているのでは?雑誌媒体でも、『初等・中等教育資料』などの雑誌があるでしょう。そちらの方では十分な情報発信が出来ていないのでしょうか?
特集の巻頭論文が文科省の「声」となっている場で、他の執筆陣が、新指導要領の問題点を指摘することは難しいだろうな、という印象を持ちました。良い意味で裏切られたいものです。

先日発表された、中学校の「特定の課題に関する調査」結果を踏まえての論考、調査結果への言及が、他の執筆者でもあちらこちらに見られます。当該の問題・設問はどんなものであったのか、読者は個人個人で文科省サイトからダウンロードして読みなさい、ということなのでしょうけれど、ちょっと不親切。まず、大問7つの全体の構成概念をこそ、文科省の立場で最初にまとめて載せておくべきだったと思います。私は、過去ログでも指摘してきましたので、印刷した大量の紙が手元にありますが、今回の特集を読むためだけに、ダウンロードし、そこでの詳細を検討し、さらに特集記事と読み比べる英語教師はどのくらいいるでしょうか?これは、編集部側の問題でもあります。折角特集記事の中で、前田啓朗先生が、「概要と結果報告」 (pp. 34 - 37) をまとめてくれているのに、本当にもったいないと思います。編集部は、各執筆者の原稿が集まってからでも、触れておかなければならないところを「後出しじゃんけん」するくらいのことはできたのではないかと思っています。
私がブログで取り上げたのは約3ヵ月前 (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20120211)。この時は主として、「符号」と「文字」の書き方について考えましたが、当然、問題はそれだけではありません。

単一技能に特化した科目設定のない中学校の調査結果を踏まえての「話すこと・書くこと」の論考には頷けるものも多いのですが、高校段階の教育課程は、戦後最大の変化といってよいものであるにもかかわらず、その前提を揺さぶるような論考は少なかったと思います。
来年度から高校の新課程で導入となる「英語表現」という科目の存在意義、唯一の必修科目である「コミュニケーション英語」との関連、「英語会話」との棲み分け、など、教科書検定が終わった今、本当に考えておかなければならないことは多いはずですから。
単位制を採用している高校は多くあると思いますが、それらの学校で、無学年制を本当に徹底しているところは希有だと思います。各学年に、各科目を配置し、教育課程、シラバスを作る訳ですが、新課程では、唯一の必修である「コミュニケーション英語 I」と並行履修で、「英語表現 I」を1年次に置いた場合、2年次以降に「英語表現 II」を配置することになるでしょう。現行課程までであれば、1年次に「ライティング」を配置することは難しいので、2〜3年次で「ライティング」を履修していたわけです。このズレをどう解消するのか?今まで「ライティング」で扱っていた表現活動を、前倒しの発想で1年次で扱い、英語で表現する力を養成することはできないわけです。では、それに代わる「表現活動」とは?
今回の特集で、この疑問に答えるとすれば、そのものズバリで、

  • 山岡憲史 「高校英語の新しい科目『英語表現』 その特徴と指導法」 (pp. 25-28)

ということになるでしょう。山岡氏自身の高校での指導を踏まえて、こう述べています。

言語材料は少なくても、1年生の段階から、しっかりと1パラグラフを書かせ続ける指導があって初めていい英文が書けるようになる。「英語表現 I」は、そのような指導を促す科目になり、その教科書もまた、それを保証するものとなるはずである。

各社から出されている教科書が、本当にそれを保証してくれるか、待つ時間と同様に「選択肢」もあまりないように思います。
高校で「育てる」英語力にもいろいろあると思うのですが、「技能統合によって、単一技能に特化していた指導よりも、『英語で表現する力』が増すことは明らかなのか?」、をずっと気にしています。過去ログでリンクを張っている、和田稔氏の論考を今一度お読み頂きたく思います。(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20091203)

今回の特集で、その部分に光を当てるものは、

  • 平原麻子 「アウトプットにつながるインプット」 (pp.29-31)

となるのでしょう。ただ、タイトルとは裏腹に指導事例の断片的な紹介にとどまり、結局は『英語授業ハンドブック 高校編』 (大修館書店) を読まなければならない、というのでは、意地悪な言い方ですが、自社の新刊のtrailerになっているだけではないかという気がしました。英授研などで、素晴らしい実践発表をしている平原氏だけに、もう少しページ数が割ければ、違う見せ方ができたのではないかと悔やまれます。
ということで、毎号のように私が批判している「コラム」。
見開き2ページで高校入試と大学入試を概観。駿台予備校の鈴木貴之氏。高校入試は中学生の95%以上に関わってくるけれど、大学入試、しかも表現を問われる出題は高校生の過半数には関係がない、ということをきちんと踏まえておくべき。その上で、特集タイトルの「表現」に迫っているか?が問われるはず。大学入試で、自由英作文の分析は「話題」「テーマ」の表面をなぞっただけで、全く「表現」には切り込めていないと思います。このコラムの2ページ分が…。
バランスを取ればいいというものではないのです。大きな力を生み出すためには、大きくバランスを崩す勇気が必要。ハンマー投げの室伏選手を見て学んで下さい。今回の指導要領改訂を、戦後最悪の改訂と言わせないための「勇気」はどこに?
上坂洋史さんのブログで詳細に分析されている、「東大入試英作文問題の解答例」 (http://wordpower.blog84.fc2.com/blog-entry-17.html) のような、高校現場でも、大学で出題・採点にあたる側においても、受験産業といわれる予備校や塾の関係者にとっても、考えるに値する材料をこそ与えるべきでしょう。
高校に限れば、普通の高校生は、入試と関係ないところで英語を学んでいるからといって、高校の英語の授業では「英語表現」を求めなくてよいということにはならない、なぜなら…、というところからスタートしないと、新課程の「英語で表現すること」の指導は上手く行かないと思っています。科目としての「英語表現」だけの問題ではないのですから。

特集で大きく頷いたのは、根岸雅史先生の「下位技能」に関する重要な指摘。

  • まとまりのある文章を書くための下位技能 その現状と課題 (pp. 13-16)

引用はしません。必読です。
記事を読み進めての最終段落で、高校英語のライティングに関わる者として、胸が締め付けられるような、身の引き締まるような思いに駆られたのは、

  • 大井恭子 「まとまりのある文章を書かせる指導」 (pp. 17-20)

今月号で一番良かったのが、「表紙の写真」ということにはならないと思います。流石に、ライティング指導の第一人者。できれば、最終段落での「高校英語への注文」をもっと詳しく読みたいと思いました。

最後に今月の特集へのないものねだりを。
過去ログ (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061123) でも指摘していますが、日本語教育の最前線の方が、日本語学習者に表現として求めている「基本例文」をテーマ別に載せて、英語教科書のものと比較する、というような記事があっても良かったのではないか、と思っています。比較的新しい記事でも、一冊取り上げています。(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20110119)

  • 坂本正 『学習者の発想による日本語表現文型例文集―初級後半から中級にかけて』 (凡人社、1996年)

「表現」という表現が、特集のタイトルに使われているのですから、その「表現」そのものの、適否、可否、優劣についての言及、考察がもっとあって然るべきでしょう。

指導要領では時代時代で記述は移り変わっているのでしょうが、日本の学校現場での「英語で表現する」ことそのものの歴史は古いのです。
ノスタルジアを越えて、先人の足跡の先へと行くために、繰り返し引くに値する考察というものが確かにあります。

従来教室で行われている生徒のproductionの面の活動は、本当の意味の意志の発表ということからは、およそ縁の遠いものである。たとえば、教師のいったことをそのまま口まねする、教師の問いに答える、日本語で与えられたことを英語になおす、文の転換、おきかえ、というようなものが大部分をしめていることが多い。また、作文とは、和文英訳の同義語に使われていて、生徒が場に応...じて、いうことの内容も自分で考えて発言したり、自由に書く機会はほとんどない。これでは発表の練習にはならない。/ 生徒が自分の意志で自分から発表する習慣は、英語の授業の第一歩から始めれば、むずかしいことではない。進んで発表するといっても、もちろん、既習の文の範囲内で、与えられたsituation によるものであるから、完全に自由な作文ではない。したがって結果に置いては、従来の活動で生徒が発表するものと同じものであるかもしれないが、「何々といいなさい」といわれてはじめて口を開くのでなく、自分から進んでということに大きな意義があり、これが将来のほんとうの自由作文、自由な発表の基礎をつくることになるのである。(吉沢美穂 『絵を使った文型練習』、『同 Workbook I, II & III』大修館書店、1965年、p. xvii)

言葉の発達は、すなわち、思想内容の発展であって、思想内容から離れた、言葉だけの問題などはあり得ない。それじゃ、作文がうまくなるためには、英語とか日本語とか、言葉に拘泥しないで、思想内容だけを深く大きくするように心がければ、日英両方で、作文の名人になるではないか、ということも考えられる。そういうことも確かにある。英語はまずいが、言おうとしていることは興味深い、という批評を与える作文がそれである。しかし、言おうとしていることが興味深いと言えるのはどうしてであるか。それは言葉づかいが興味深いからである。言いかえれば、言葉の用い方が独特の興味深い用い方であるから、内容が興味深いことになるのである。作文の中の思想感情は言葉によって発表しているのである。言葉の裏にかくれた思想といっても、表面上の言葉によって、その裏の思想がわかるのである。 (小沢準作「英語の作文と修辞」、『現代英語教育講座 8 』、研究社、1964年、 pp. 6-7)

私が生まれたこの当時と比べて、現在の英語教室で交わされる「英語の表現」は本当の意味で豊かになったのか、「英作文の教師」として今こそ自問する時だと思っています。

本日のBGM: Chicken And Feathers (Nick Lowe)