もっと懇親会を!

三者懇談初日。
どうも、「懇談」ということばに抵抗があるなぁ。生徒、保護者の声を聞き、教育に反映させるのに、「懇談」が必要なのだろうか?いつでも思い立った時に言えばいいのに。

  • お前は、言い過ぎだろっ!

というご批判は甘受致します。
生徒は多様、懇談内容はいろいろ。今後の取り組みも様々。ここでは書けません。
さて、
新しい指導要領もまだ正式に実施されていない段階で、あれこれ提言をしようという、教育に関わる極めてお節介な懇談会があるのだが、これを「懇親会」くらいに留めてはおけないものだろうか。
短期間に3人もの総裁を輩出する進取の資質に富む政権与党も、その政策が有権者から評価され、選挙の際には審判を仰ぐということになる。その意味では、有権者は一票を投じることで総論としての政治を動かす分力となることが不可能ではないことになる。
それでは、各論として、教育政策への関わりではどうなのだろうか?

  • 教科書のページ数を二倍にする。

というのだが、これに対して、民意は反映できるのか?
「活字のフォントサイズを二倍にしたら結局は同じだろう」、という素朴な疑問は?「版型を大きくしたら、1ページ当たりの文字数は増やせるのでは」、というアイデアは?
「ゆとり時代に内容を3割削減した際の責任者はどこへいったのだ?」と言われたら?
失われた学力といって学力を議論しているようでは本質から遠ざかるだけである。学力を失わされた児童・生徒への謝罪・手当・補償はどうするつもりなのか?そして、このような施策の意志決定をした人や機関を評価して民意を反映させようという時にはどうすればいいのだろうか?
善意の提言は留まるところを知らない。

  • 無意味な挿絵を制限する

というのだが、どこまでが必要でどこからが過剰なのかという線引きにヤキモキするくらいなら、「全編を漫画にする」というような発想で一冊教科書を作ってはどうだろう。浦沢直樹でも井上雄彦でも松井優征でも稲上晃でもいい、当代一流の漫画家やイラストレーターを起用してみたらいいのだ。W師匠はモンキー・パンチだったな、そういえば。うん、今ならわかる。

『英語教育』(大修館)2009年1月号の特別記事、

  • 小串雅則「中学校学習指導要領の改訂と検定教科書」(pp.60-63)

を読んで、大いなる違和感を覚えた。

そもそも「学習指導要領」とは
そもそも「検定教科書」とは

のそれぞれが、指導要領も検定教科書も妥当なものであり、今後とも有り続けることを前提とした発言である。前回(=現行)の指導要領に不備があったのであれば、その不備により不利益を被った人たちへの後ろめたさや慚愧の念などがあってしかるべきだろうと思うのだが、そういうことは全く気にしなくても良いらしい。今回の改訂で、こと外国語に関しては、

  • CFERなどに代表される到達目標を明確にすること=英語力とは何なのかを国として示すこと

が肝だったと信ずる。
その部分を結局最後まで詰め切れずに、「到達目標の明確化が議論の俎上に上がったことはあったが、最終的には学習指導要領に盛り込まれることはなかった」(p.63)という文科省の担当者のなんとあっさりしたことか。それに対して予想される反論に答えるべく用意された文言の説得力の無さたるや無惨。「何故『参照枠』なのか、という議論が日本で広まらなかった理由」をこそ、今回の指導要領作成スタッフに問いたい。
英語の到達目標や到達度の指標を考える足場、土台、もの差し、共通言語が定まらないから、

  • 私は英語の偏差値が60なのですが、○○大学に合格するには、今から何をやればいいですか?
  • 単語はXX、文法は□□を5周しました。そろそろ長文をやろうと思うのですが、良い問題集を教えて下さい。

などという学習者を量産してしまうことになっているのでは?
音声指導系の「トンデモ本」や過度に単純化した恣意的な ”体系” の「文法参考書」や英語として不備のある表現が満載の「入試対策問題集」が跳梁跋扈しているのも、信頼に足る「参照枠」のなさに要因を見いだせるのでは?
小串氏は次のように結んでいる。

特に、目標に到達しないことが即指導の失敗のように受け取られがちであることは大きな課題であろう。到達目標の設定には、学力保証という側面があることは明らかであるが、むしろ学習成果を到達目標に照らして検討することで指導の在り方を教員自らが評価し、それを改善するためのPDCAのマネージメントサイクルを機能させるというように考えることが生産的であると考える。到達目標の明確化は、生徒の学力向上と教員の学習指導の改善に関わる課題として、あるいは、教科書の改善に直接結びつく課題として、今後幅広い議論が必要なものである。(p.63)

というのであれば、識者間の議論そのものを広く公開し、民意を問うべし。雑誌『英語教育』も、いろいろな方面のバランスを懸命にとりながら特集と連載と特別記事とで異なる「スカラー」を発揮するのではなく、誌上公開討論会を企画してはどうなのだろう。
それでは、角が立つ、とか識者それぞれの面子が、というのであれば、「座談」や「懇親会」でもいいじゃないですか!
このブログでも以前指摘した気がしなくもないのですが、再度繰り返しておきます。

  • 指導要領の法的拘束力そのものをなくしましょう。
  • 検定教科書を廃し、市場原理に任せて、安売り合戦でもプレミア付きでも、オンデマンドでもいいので、市場の書店で年度を通じて購入可能な流通形態を実現しましょう。
  • 日本で考える自前の英語力の発達指標・到達度指標を明示し、指導評価の「参照枠」を提示しましょう。身につけた技能・知識の到達度がどこまでなのかをパスポートで示し、担当者が変わったり、上級学校に進んだ際、さらには再履修やレメディアル教育の際の講座選択の際の参考とするために。

本業はオフシーズンとはいえ、レースがないだけで、トレーニングでは重要な時期である。
年が明けて1月に開かれる、西地区の研修会の詳細が届く。
参加選手のリストでは、エルゴ20分のスコアをもとにクルーの振り分けがなされていた。4人乗り、2人乗りでそれぞれのクルーの平均値が概ね揃うようにして、並べが可能な前提を作っている。同じスコアを持ちながらスピードの差が生まれるとすれば、技術の精度と安定度に差があることが推測できるわけである。ここではエルゴスコアは選手評価の絶対的な指標ではないが、確実に「参照枠」の一つくらいの役割は果たしているのである。それによって公平性を保った「クラス分け」ができて、問題点を見つけやすくなるわけだから。「同じクラス」に入った選手たちは自分よりスコアが下なのに速い選手の技術を学べるし、自分より大きなパワーを発揮している選手の力の出し方、使い方を学ぶことでより高い出力を生むヒントが見つかるかも知れないのである。習熟度を活用しながらも、異なる習熟度の選手を「同じクラス」で協同させ、「クラス同士」で競漕させるというアイデアが素晴らしい。
これをすべて取り仕切ってくれたS先生が凄い。S先生、本当にありがとうございます。
さあ、明日からは、県の強化合宿。
修業してきます。
懇親会まで含めて、よろしくお願いします。
本日のBGM: 長いお別れ〜きみを気にしてる(柳原陽一郎/アルバム『長いお別れ』, Panam, 1998年)