今では、手紙を書くことは少なくなりました。多くの要件は (電子) メールで済んでしまいます。
先日、ライティングのシラバスで問い合わせがあり、自分の指導の足元を見直してみました。元々の問いは、

  • (GTEC Writing Training でも『パラグラフ・ライティング指導入門』でも) テクストタイプ別の指導をしていると思うのだが、「ナラティブ」を他のテクストタイプよりも先に扱っている理由は何か?

というものでした。
ナラティブをシラバスの最初に入れている、というかそこから始めている理由としては、私個人の、
・ 物語こそが、ディスコースの基本であるという認識
があるように思います。太古の昔、書き言葉が未発達の頃から、韻文・律文、または物語で人は大事なことを謳い継ぎ、語り継いできた、という認識です。

音の響きとリズム、対比、象徴、反復などのプリミティブな韻律に多く見られる特質から、どのようにして物語へと移行していったのか、に関しての「問い」は私自身のライフワークと言えるかも知れません。
・時系列に沿って書かれるか、時に支配左右されない言説か
・対人機能 (相手に働きかけ、行動を促したり、説得したりする) を持っているか、単なる情報の提示か
という縦軸横軸での象限を取って、テクストタイプを便宜上考えるときに、

(+) 時系列、(+) 対人性 →instruction
(+) 時系列、(-) 対人性 → narration
(-) 時系列、(+) 対人性 → argumentation
(-) 時系列、(-) 対人性 → description (狭義の exposition)

というような切り取り方ができるかと思いますが、instruction の多くは口頭で済みますから、教室内で「書くこと」によって賄う必然性があまりないと考えています。
大学入試の出題では、argumentationの比率は約50% (ELEC同友会ライティング研究部会2006年調べ) ですから、予備校や学参での対応がここに集中するのはよく分かりますが、実際に高校生に書かせてみるとなかなかクオリティが上がりません。
その一因が、事実と意見の区別、事実を事実として書く力の欠如、個人的経験を踏まえた一般化をする力の欠如、などにあるというのが、私が1988年から1995年までの授業を通じて得た実践知、経験知でした。
その「気づき」から、クオリティを上げるのに最も時間がかかるナラティブをシラバスの最初に入れておき、そのテクストタイプの記述に慣れさせてから、テクストタイプを expositionやargumentationへと移行する中で、「ナラティブ的な書き方」を重層的、というか紙漉的に練習し、シラバスでは最後に置かれているargumentationへと繋げる、という目論見です。当然、事実を事実として書く場合に、時系列に依らない expositionの力も必要ですから、argumentationでの理由のサポートの際、自分の意見を「事実で」「客観的に」支持するために、必然的にexpositionの力が試されます。
ただ、これらのテクストタイプはクリアカットできるわけではなく、重なり合い混交しているのが実態なので、私のシラバスでは、obituaryやbiographyが重要な位置を占め、「本の『まえがき』や『あとがき』」にスポットライトを当てているわけです。英語教育の研修会の、どこで何度話しても、分かってもらえる人は限られていますが、十数年この考えは変わっていません。

昨年度のELEC協議会での私の講座では、「ナラティブ耐性」ということをフロアに投げかけてみましたが、数名の方から反響があった程度でした。今月開催の「第6回山口県英語教育フォーラム」で講師としてお招きしている植野伸子先生はそういう部分を拾う感性の豊かな方だと思っています。
昨年のELEC協議会で使ったファイルは、過去ログの

でダウンロードできますので、是非お読み頂ければと思います。
最近は、過去ログでも何度か取り上げましたが、「多読」についての自分の取り組みを振り返っているところです。今年の私自身のテーマの一つに、「読むこと」での、言葉の発達段階とは?という問いを立て、いろいろ考えてきました。その契機となったのは、過去ログの

でも引いた、『ストーリーテリングのすすめ』でした。私の薦める本の例に漏れず絶版となっていますが、今こそ、読み返されるべき本だと思っています。個人的には螺旋階段をぐるっと回って、少し高いところから今ナラティブを眺めているといったところです。
今年の「フォーラム」では、SSS多読をベースとした高専での多読実践を高橋愛先生に発表して頂きます。「文学」というと、一つ一つ地道に「ことば」を読むしかないのだろうな、と思っていた私にとって、英文学研究をされてきた高橋先生が「多読指導」を実践している、ということそのものがとても興味深いのですが、詳しいお話は、11月16日 (土) に、山口市で!

第6回山口県英語教育フォーラム
2013年11月16日 (土曜日) 開催。

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私が事務局長をしておりますので、私宛のメールでも構いません。
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さて、
英語を学び、使う上で、ギリシャ、ローマの神話や聖書の内容や表現に習熟することが重要である、などと言われることがあります。
ただ、私はクリスチャンではないので、聖書の記述に時々、いやしばしば戸惑うことがあります。
先日も、とある方とのメールのやりとりから、知ることとなった次のような箴言の一節が気になっていました。

  • 愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな、あなたが彼に似た者とならぬために。
  • 愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者と思い込まぬために。

(http://shinozaki-baptist.jp/modules/kyuyaku/index.php?content_id=721)

矛盾するような諺で、自らの「知」「無知」が試されているのかしら、とも思ったのですが、当然、ヘブライ語などの原典があって、そこから日本語や英語へと翻訳されているのでしょうから、英語版ではどうなっているか見てみました。(http://www.biblegateway.com/passage/?search=Proverbs+26&version=NIV)

  • Do not answer a fool according to his folly, or you yourself will be just like him.
  • Answer a fool according to his folly, or he will be wise in his own eyes.

命令文で、選択を表す or と共に使われる語法で訳されています。他にも色々なバージョンがあるのだとは思いますが、今は、この英文で考えてみたいと思います。
この型は、<命令文での命題1 + or の後に示される命題2>での選択を求めるわけですから、前者の箴言では、

「愚者の愚かさに見合った答えを愚者に与えない」、という選択肢を取るか、それとも、「自分がその愚者のように愚か者になっていく」という選択肢を取るか

を迫られていると考えられます。どちらかを取れば、どちらかは排除されるわけですから、

  • 愚者に合わせて答えない場合には、自分は愚か者にはならない。愚者に合わせて答えてしまうとすれば、自分は愚か者になってしまう。

ということでしょう。
後者の箴言なら、

「愚者の愚かさに見合った答えを愚者に与える」、という選択肢を取るか、それとも、「愚者が自分で自分の知を弁えるようになる」という選択肢を取るか

を迫っているのでしょうから、

  • 愚者に合わせて答えると、愚者は自分で自分の愚かさに気が付かなくなってしまう。愚者に合わせた答えをしないとすれば、愚者は自ら悟るようになる。

ということを言っているのではないか、と思います。
この分野、領域に詳しい方がいましたら誤りの指摘などお願い致します。と訊ねたときに、私のことを「無知な愚か者め」と思っている人は、どのような「答え」を与えてくれるのでしょうか?

夕飯は、私のリクエストに応えてもらい、久々に「自家製塩漬け豚のカルボナーラ」。
当然の如く、『ふしぎなメルモ』のアニメ主題歌の替え歌で、「♪カルボ君、カルボ君〜♪」を口ずさんでから頂きました。ごちそうさまでした。
『相棒』は録画。
今回は梅ちゃんの踊りを堪能したいと思います。

本業での恩人の死を悼み献杯で就寝。

本日のBGM: Songwriter (KAN)
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