隔靴掻痒

英語の授業を英語で進める授業のことをカタカナ語では「オールイングリッシュ」と形容・叙述していることが多いように思う。私は普段、”all (in) English” というようにかっこ付きで使っている。過去ログでは、おおよそ、2年半前になる →http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060528 のエントリーで言及している。その前にも「英英派」「AAO」に関して思うところを書いている(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20051203)。こちらがおおよそ三年前。この争点は自分の中では既に決着が付いていたかに思えていたのだが、今回の指導要領改定案、そして、今年のセンター入試での出題をみて、再び違和感が噴出してきた。
今年のセンター試験の第6問では、いわゆる「英英辞典」、monolingual dictionariesの効用を説く内容の文章が出題された。読解問題の素材文として、である。この文章の内容、そして、大学入学志願者を弁別する試験の読解問題で出題されたということがものすごく皮肉だな、と私には感じられたのである。
(私の違和感は、第8段落の結論めいた提案に至ってピークとなるのだが、詳しくは、この問題文を入手して読まれたし。翌々日の朝(19日午前9時現在)になってもまだ、大学入試センターのサイトでは他教科も含めた著作権の問題をクリアーできないためか、問題文自体が公開されていないのだが…。)
徒然なるままに、

  • そもそも、この文章を読んで理解できる高校生はどのくらいいるのか?
  • その理解している高校生のうちどのくらいが、「英語を読んで英語で理解している」のか?
  • その「英語を読んで英語で理解している」と思っている高校生のうち、どのくらいが、「英語を読んで日本語の助けを借りて理解している」生徒の理解度よりも高く深いのか?

今暫く私の違和感にお付き合いを。

  • では、このような文章が理解できない高校生がまずやらなければならないことは「英語を英語で理解する」ことなのだろうか?

私が、いわゆる「英英辞典」を使い始めたのは高校生の頃である。
LDCEの初版 (1978年) を買って使い始めたのが、1980年。高校1年生から2年生になる頃だったと記憶している。それと前後して、三省堂の『コンサイス英英』(これはいわゆる旧式の英英和)もラジオ『百万人の英語』の懸賞か何かでもらって使っていた。ただ、その頃には少なくとも英検でいう2級以上の英語力を既に身につけていたのは確かである。

当時のわたし自身の英語学習に関しては過去ログを→

そして、当時の大学入試を控えた高校3年生の授業で求められた語彙力の目安はこちら→ 

週が明けて月曜日の今日、0時限の高2で、まずこの第6問を扱った。

  • 問題文は見ずに聴き取り。第一段落のみ2回聴いて、主題を書き出す。ペンを置いて1文ごとに聴いて聴き終わってからペンを取って書き出す。2回ずつ。全文をこの手順で終えてから、3分間時間を取って、欠落した情報や文法的な整合性の修正。個人での見直しを経て、全文を1回通して聴く。その後、日本語により内容を問う設問を4つ与え、自分の書き出したメモの該当箇所に下線を引く。その後、確認のために通して全文を一回聴く。

この作業でおおよそ30分。この作業が上手くいかない者は、「英語は英語で」の授業を続けていけばそのうち出来るようになるのだろうか?しかもこの文章はあと7段落続くのである。少なくとも、この段落の最後の1文、

  • Now, after studying English at university for three years, I understand that monolingual dictionaries play a crucial role in learning a foreign language.

の意味が理解できていなければ、主題を掴むことは難しいだろう。逆に言えば、ここでのcrucialという「主観的な」「反証可能性を含んだ」形容詞が正しく理解できていれば、その論証責任が次の段落以降で求められるというのが、英語の文章の「建前」であるのだから、内容を推測しながら読むことが少しは容易となるかもしれない。
最後まで読みきったと仮定して、最終の第8段落での提言を簡潔にまとめると以下の通り。

  • 一般の英和辞典→文章の大まかな意味が分かればよくて、自分の考えを表現する必要のない人向け
  • 特殊な英和辞典→通訳者・翻訳者として働く人には必要になる
  • 英英辞典→意味を明確に理解し、多様な語彙を駆使して話したり書いたりすることを求める人向け。ただし、基礎的な語彙を完全に使いこなせるようになってから。


最後の「英英辞典」のススメ、の部分は、第5、第6段落で述べられる「学習用英英辞典」の効用とそれよりも一段階上にある第7段落での「シソーラス・類義語辞典」との効用が一緒くたになっていて、必ずしもこの筆者が述べてきた内容を正しくまとめたことにはならないと思われる。さらには、第6、第7段落で指摘される「英語による表現」に関しては、もう一つのbilingual dictionaryである、「和英辞典」の効用にも限界にも全く言及がないまま論が進んでいるのである。
センター試験など、そんなものだ、と譲歩したとしても、最終段落でのただし書きの部分を無視してはいけない。

  • once you have command of a basic vocabulary

私が思うに、ここでいう「英英辞典」を使うことが「極めて重大な」英語学習というのは、この第6問の文章が苦もなく読める程度の語彙力(= a basic vocabulary)を身につけたあとのことを指すのではないだろうか。「決め手となる」”crucial” の「本当の意味」が英英辞典を引くことによって得られるのか、ちょっと見てみよう。

旧版で申し訳ないが、LDCEの第4版(2003年)から定義を引く。

  • crucial: something that is crucial is extremely important, because everything else depends on it (p.377)
  • significant: having an important effect or influence, especially on what will happen in the future (p.1536)
  • influential: having a lot of influence and therefore changing the way people think and behave (p.833)
  • essential: extremely important and necessary/ the essential part, quality, or feature of something is the most basic one (p.531)
  • major: having very serious or worrying results/ very large or important, when compared to other things or people of a similar kind

この定義を読んで、crucialとmajorの「本当の意味(= the real meaning of a word in English)」が「明確に (= clearly)」わかるだろうか?
旧版で申し訳ないが、MED (2002年、米語版) から定義を引く。

  • crucial: something that is crucial is extremely important because it has a major effect on the result of something (p.426)
  • major: 1a. more important, more serious, larger, or greater than other things (p.1095)

これらの語義を照らし合わせて考えた時、第一段落の最後に述べられる、

  • monolingual dictionaries play a crucial role in learning a foreign language

の ”crucial” という語彙選択は適切だろうか?
この文脈では、せいぜいが、significantとかinfluentialどまりであって、majorを最上級のように使ったり、essentialを用いたりした場合には、bilingual dictionariesの効用を過小評価するような印象を与えかねないので感心しない。では、crucialだったら?
今は亡きWBDの定義を引く。

  • crucial: very important; decisive; critical

と至ってシンプル。
『COBUILD 米語版英英和辞典』(2008年) から定義を引く。

  • crucial: If you describe something as crucial, you mean it is extremely important. 重大な (p.250)

言ってみれば、この文章でのcrucialはこの程度の漠然とした語義の理解で用いていると推察されるのである。であれば、「極めて重大な」という既存の英和辞典の訳語を用いた理解でも十分ではないのか?
Oxford Dictionary of English(電子辞書SII SR-E10000収録版)の定義を引く

  • crucial: decisive or critical, especially in the success or failure of something / of great importance

この語義だと、やはり二つ目の意味合いで理解するのが適当だろう。
第8段落の, However以下が筆者の焦点であるという解釈をすれば、ここで示される内容が筆者の考える外国語学習の目的とみなせるので、

  • to understand a foreign language clearly and to speak or write the language using a variety of words

に適した辞書である「英英辞典」の使用に重点を置いた解釈が妥当なものといえるのかも知れない。しかしながら、「英英辞典を使わないと英語学習に失敗する」という裏付けは、この文章のどこにもないのだから、冒頭の段落での crucial を「何はなくとも」「これが全てを決定づける」というような意味に解釈するのは勇み足となるだろう。
そう考える時に、問7(第50問)の解答が本当に適切なものなのか、ネット上でも議論になっていないのがものすごく気になっている。用意された正答を当てはめた英文がこちら。

  • The writer implies that by continuing to use only bilingual dictionaries, learners are less likely to achieve a good command of a language.

最後の a languageは文脈からL1ではあり得ないので、a foreign languageとか another languageとか、a target languageの意味だろうとは思うのだが、この文章で筆者が言っているのは、せいぜいが、

  • The writer implies that using monolingual dictionaries and bilingual dictionaries according to your purposes is very likely to help you achieve a good command of a foreign language.

あたりではないのか?

  • えっ?お前が今示した英文だと「示唆」ではなく筆者の「明確な主張」だろう?

その通りかも知れません。ただ、私には何故、論説文とはほど遠い、論拠が隙だらけのこの英文を読んで、「はっきりとした言葉で言わずに、間接的に示されたことがら」の適否をわざわざ論じているのかがよく呑み込めません。

  • 大学の4年生くらいになれば、この位の英文が書けることを日本の英語教育は目指しているんですよ。

というアピールが「言外に隠されている」のであれば、この出題はこの出題でいいことなのかも知れませんが…、ああ、そうか、 “the progress I have made in English” とあるだけで、どこにも「高い英語力のある」という記述がなかったのに、なぜ問7では ”a good command of a language” と言い切っているのかが気になっていたのだが、この英文が書けるような日本の大学生はたしかに、英語ができるといって良いでしょうね!
今回のセンター試験では、前半の第3問のBの出題で、教師と生徒3人の僅か4人によるディスカッションを素材にした「読解」と「要約・換言」の問題があるのですが、今回の第6問の内容はむしろ、そちらで扱う方が良かったのではないか、というのが私の偽らざる「感想」です。
くれぐれも、今回の出題、この第6問を持ち出して、「高校の英語の授業は英語で」という方針に軌道修正することを支持するための材料に使うのは慎重にして欲しいものである。今回、私がここに引いた全ての英語による定義が、もし日本語で示されていたら、もっと容易にその語の「本当の意味」が分かるかも知れないのだから。
その意味では、最新の『COBUILD米語セミバイリンガル版(英英和)』(2008年)も『ケンブリッジ英英和』(小学館、2004年)も、定義文を日本語で説明しているわけではないので、『コンサイス英英』(三省堂、1978年)から大きく進化しているわけではない。『ワードパワー英英和』(増進会出版、2002年)では、この点、日本語による解説へとかなり踏み込んだ努力がなされていたように思うが、活字の組み方や色遣いなど伝統的な辞書の紙面とかなり異なる印象を与えており、極めて読みにくく、引きにくいのが誠に残念である。
monolingualのシソーラス、類義語辞典が本当に外国語の能力向上に効果的であるのか、を考える材料としては、例えば日本語の類義語辞典で良いものがあるかを想像してみると良いのではないか。そして、その良い教材を外国語(第二言語でも結構)として日本語を学んでいる学習者が使いこなすのにどのくらいの日本語力が必要なのかを想像してみるのである。私の手元には、

  • 松井栄一編『ちがいがわかる類語使い分け辞典』(小学館、2008年)

がある。たとえば、「ひょうげんする」(p.417)では、

  • 表現する・表す・表出する・表白する・描写する

の5つの表現をコロケーションによる共起制限を利用して使い分けの目安を与えている。使用例は、

  • A 心中の悲しみを
  • B 情景を的確に
  • C 怒りを顔に
  • D 尊敬の意を

の四つ。Aの補足説明は以下の通り。

  • Aのような心の内面のものを外に示すの意の場合は、どれも使える。しかし「描写する」は客観的に描き出す意(たとえ自分自身のことについても)をもっていて、他の四語とはこの点で異なっている。

この日本語解説を読んで理解できる学習者の日本語のレベルとはどのようなものだろうか?

さて、
自分自身のパブリックコメントへの最終の詰めを行う中で、改めて、中教審の外国語専門部会での議論を振り返ってみた。
最終回である、第18回 (2007年9月14日) の議論だけ、詳しく読んでいなかったのを猛省した。
(第17回のまとめがこちら→http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/015/siryo/07100309/001.htm、第18回の審議内容がこちら→http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/015/siryo/07100309.htm
中教審のこの部会の審議だけで見るのならば、「授業は英語で行う」というテーマが議論に出てきたことはないように思われる。ということは、中教審の答申(提言?)から改訂案作成の間に、どこかから、誰かから入ってきたということなのだろうか?真偽のほどは定かではないが、審議されていないことが、鶴か亀か分からない、一声(あるいは二声か双声か両声か複声か混声か大声か…)で文言が付け加わるというのであるならば、極めて異例のことではないかと思われる。
この第18回の審議の過程で山岡委員が言う次の内容は、改定案でどのように反映(修正、吸収あるいは却下?)されているのか、読み直してみた。

  • 資料5につきまして、私も「案の2」がいいなと思います。「案の1」でも同じなんですけど、現実的な履修形態としては、コミュニケーションIを1年生で選択をし、あわせて、英語表現Iの2単位で5単位のような形式になるのではないかと思います。2年生ではコミュニケーションIIをとって、英語表現IIの2単位、3年生でコミュニケーション英語IIIと英語表現IIのもう2単位、分割履修ということが可能ですよね。そのような形態におそらく多くが落ち着くのではないかなと思います。そういう意味では非常にすっきりしていますし、段階的に履修できると思います。ただ、心配なのは、「案の3」にある英語理解、いわゆるリーディング、リスニングの部分がどうも薄くなるような印象が確かにあります。そこで、コミュニケーション I, II, III、の部分で、少なくとも現状のリーディングの量が減らないような手だてが必要ではないかなと思います。ただでさえ高等学校で読む量が減っていると思われますので、そこの部分がより弱くならないように工夫が必要ではないかなと思います。それと、コミュニケーション英語基礎と英語会話とのやはり差別化が必要でありまして、コミュニケーション英語基礎をとる学校ですと、1年生でコミュニケーション英語基礎と英語表現Iの2単位をとるような感じがします。ですから、かなりダブりが、コミュニケーション英語基礎と英語会話云々の重なりがあって、その部分でもう少し特色が、松本委員が仰ったように、特色があればこれが生きた科目になるんじゃないかなと思います。

パブリックコメントを既に出された人も、これから出す予定の人も、出すつもりのない人も、今一度、この審議会の模様を振り返ってみてはどうだろうか?
私の最終的なコメントは明日20日にはアップしたいと思っています。

本日のBGM: Middle of Nowhere (Dreams Come True)