♪ドゥドゥビ、ドゥビドゥバー♪

先日、幸宏CDを渡した同僚が大層気に入ってくれたようで何より。おまけの曲は My favoriteの “Sigh of ghost” だったのだが、やはり大村憲司のギターソロが決定的。あえて、ライブ盤からの選曲で攻めてみたのが功を奏したようだ。でもオリジナルもいいんですよ!次は『春がいっぱい』からでもいってみようか。
今日は、担任は三者懇談。朝、7時台から懇談をしている人もちらほら。1日で20組以上こなす人も。一組20分としても約7時間かかる計算。敬礼。私は、終業式に配布する学年通信の編集作業。ほぼ完成。三者懇談を終えた本業の部員の保護者に挨拶。雨が降る前に帰宅。
最近ずっと気になっているのが、「和訳」と「文法指導」に関する英語教育界のスタンスというか「対応」である。とりあえず和訳に関しては、昨年の『英語青年』10月号での拙稿をお読み頂きたいのだが、『英語教育』誌上では靜哲人先生以外何の反応も公的に示していないようである。声を荒げる必要はないが、何故、英語教師たちはもっと声を上げないのか?「理解の段階でとどまっては英語学習ではない」という識者からの批判はよく耳にするので、ここにそれに対する再反論を示しておく。
そもそも、英語の理解の段階で躓いている学習者にとって、またある一定の英語力をもちながらも、ある英語表現の理解に躓いている学習者(運用者?)にとって、パラフレーズしてもらうことで理解しようが、和訳してもらうことによって理解しようが、理解できること自体が第一義的目的なのである。
和訳を批判・否定するのに用いられる理由付けを考えるにつけ、近年「イメージ」とか「コアミーニング」とかを高く評価し持ち上げている時流をどう説明するのだろうか、と疑問に思う。今年度は『英語教育』(大修館書店)に連載がある。NHKの英語講座にも同様の講座が。
あの連載や講座で、たとえば、絵や写真が一枚出てきて、イメージや図解を示して、対応する英文のみ、または英文のパラフレーズを提示するだけで完結しているだろうか?それでわかれば誰も苦労しない。肝心なのは、その絵や写真を「描写・記述・説明・解説・補足する日本語」なのではないか?今一度、次の言葉を引く。

  • 絵を描けばよいといわれるかもしれない、が、それは、ヒントを視覚化したものであり、日本語の使用を視覚化したものであるといってもよい。(安井稔『仕事場の英語学』(開拓社);過去ログは→http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20051203

当然、「日本語の使用を視覚化」できる語いには限りがあるので、連載や講座で扱える英語は限られてくる。そこで得た「気づき」はどのように英語の全体像把握に寄与するのか?Focus on Formの良さを主張する人が、決して1年間の具体的なシラバスを示さないのと似たような印象を受ける。
比較の対象としてBasic English(さらにはGDM) を思い起こすといいのではないか。「ハト感」や「コアミーニング」は、あの850語のように有限の語いの段階的・体系的な導入で英語による世界を作り、世界を掴むことができる方法論なのか?たとえば、過去ログ(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060109)で示した、授業傍用ハンドブックから抜粋したonの用例38も、それぞれのonに焦点を当てたり、相互の関連性に気づくことが出来るためには、その文の他の語いが少なくとも理解できなければならないではないか。本当に初学者が、この例文一覧の初見で、「なるほど、onってそういう感じなのか!」と腑に落ちると思っているとしたらあまりにもナイーブすぎる。学習が一定量進んだ時点で振り返り、少しずつ気づきが訪れる、というのが実態ではないのか。
「ハト感」にしろ「コアミーニング」にしろ、自分の受けるイメージと理解とのギャップを補ってくれているのは、「日本語による解説」なのである。このような英語の核・肝・エッセンスに当たるものを理解するのに、これだけ日本語に依存しておいて、教室でのたかだか50分の授業では、日本語の使用を排除し、「和訳」を十把一絡げで否定する、というのは自己矛盾ではないのか。
何度でも繰り返し言う。

  • 語いの理解に始まり、英文の意味理解のために学習者はL1である日本語に大きく依存していることを認識すべし。
  • 教室での日本語の使用を禁じたからといって、学習者が日本語を頼りに語句や英文の意味を理解していないとは言えないことを認識すべし。

文法に関しても、再三再四指摘してきたが、高校での文法指導を根本的にあらためるためには

  • 「体系的」という美辞麗句に酔ったり、安住したりせずに、学習者の目線で文よりも小さな単位から文法を見直すべし。授業中の活動がいくらstudent-centeredでも文法の説明になったとたんに教師の持つ既に完成した体系に基づく教授・伝授では意味がないだろう。
  • 入試問題の演習と解説をすることと、学習者が文法を身につけることはイコールではないと認識すべし。困難校(と一般に言われる学校)での実践から学ぶこと。
  • 英語教師の大好きな「文法準教科書」をこそ、和訳先渡しで授業すべし。できれば、参考書を用いて授業すべし。
  • 用語の整理・統一並びに解説の技術を向上させるべし。「英語教師は文法指導が下手なのだ」と自覚し、story messageの質的向上を図るべし。
  • 文法事項の導入・理解・演習で用いた用例・例文の音読・筆写・復唱を取り入れるべし。教材で提示される用例・例文の内容が繰り返しに堪えられないと思ったら、導入で用いる用例・例文を書き換えるべし。

うーん、さすがにこれだけ「べし」が並ぶと「もーれつ」だな。

本日のBGM: モーレツな人 モーレツな恋---うちにかぎってそんなこと(Carnation featuring 森高千里)