無用の用

英語教育の研究会などでは反省会・懇親会の席で、お互いの本音が見えることがある。研究会での英語公用語論を唱える人たちから見れば、研究会の席で英語も使わず、肝心なissueに切り込みもせず、懇親会での情報交換に精を出すとは何事かっ!と頭から否定されてしまう行動様式だろうが、これはこれで意味があるのだ。まず、発表の背景や普段の取り組み、英語教育よりももっと根底にある教育観や価値観などに触れることで、良くも悪くも自分のteacher’s beliefが明確になってくる。
先日も、私のバックグラウンドを知りたいと言われたので、先月のFTCで話したようなことを伝え、最近の発表などに言及した。その中での「いつも自分の中では、大村はま氏の実践を意識し、そこから学んでいる」と言う私の発言に相当意外な反応を示していた。その方が言うには、

  • 先生の実践って、「ルール無用!」みたいなところがあるじゃないですか。そういうところに目をつけるのか!とか、もの凄くミクロな、電子顕微鏡で見ているのか?と思うような発想があるんだけど、そういうのってどこから来ているのか、というのが気になっているんですよね。

だそうです。「定石破り」「型破り」「掟破り」というような評価は良く受けたが、「ルール無用」とは言い得て妙。様々な先輩の授業実践を見て、多くの書物や論文から学びながらも、やはり自前で考えて一から作り直すことでしか、自信を持って授業できないし、結果として自分の中でのブレがなくなるのではないかと感じている。「型」を破るには「型」を知らなければならないし、逸脱するということの不安に打ち勝つ勇気も必要だ。
最終的には「何を、どのように、どれだけやったら英語の力が付くのか」という具体論と「ことばとして豊に機能しているのか」という理念のようなものとの鬩ぎ合いである。単語・熟語・文法・構文・解釈・長文…という積み上げで英語力をつけていく発想はとっていないし、そのようにことばが成熟していくとは思えない。網羅的なリストを一つ一つチェックしていくタイプの授業ではなく、もっと骨太な取り組みの後に「さあ、残りは自分でチェックしていきましょう」と言える授業にしたいのだ。
これまでの教え子の感想にこんなものがある。

  • 前から英語が伸び悩んでいて、どう勉強すればいいのか、どこがどう分からないのかが今まで分からなかったけど、この講座でその解決策が見つかった気がする。ただひたすら覚えるだけじゃなくて、柔軟な思考が必要なんだと実感できます。
  • 母親にプリントを見せたら、例文の英文に感動を覚え、コピーしてくれと言われました。確かに先生の英語は入試よりもかなり高度です。しかし、日常で使えるためにはこれくらいのことが必要ということがわかりました。いつも本当にお世話になっています。ありがとうございました。
  • 予備校などで教えられることと違って、英語そのものの力がつく授業だと思います。
  • あんなにじっくりとひとつのものを読んだのは初めてだったし、自分では絶対に思いつかないような考えがたくさんあって、とてもためになりました。文章もじっくりと読めばこんなに深いものなんだなぁーとびっくりしました。
  • この授業で問われる「語句の表している意味そのものの理解、『…というのはどういうことか』の理解」というのが、普段の授業でも予備校でも追求しない部分でした。難しい日本語に訳しても理解できていないことに気づいた。
  • 2学期から授業を重ねるたびに「読解する」ってこうやってするものなんだ、と思った。いつもは気づかずに読み進んでいた文章や単語に実は主題の手がかりがあった。「あ、そうか」「そうなんだぁー」と発見の多い授業でした。それを楽しめました。
  • 三年間ありがとうございました。先生が来て初めての授業…タイマー、隣の人と相談?!最初の方は正直ぶつくさ言っていましたが、今では先生の授業が大好きです。先生の授業は基本的に無駄なことが一切なく、予習・復習・参加するだけのつまらない授業と違って授業の中で「考える力」を使うところが好きです。うわべだけの丸暗記勉強ではなく、勉強の本質をついた、発見・ひらめきの勉強、これぞ待ち望んでいたもの!!様々な試行錯誤の上確立された(と思われる)このmethodは決して忘れません。

というように、高校の3年生ともなれば成長の跡を感じさせるコメントを残してくれるものだ。そして、次のようなコメントもあるから教師もまた成長するのである。

  • 英語の先生はみんなそうですが、それぞれ自分が一番英語力の伸びた方法を絶対的なものだと信じこんで、他のやり方を批判する節があります。それは五十歩百歩だと私は思うので私は一人の先生の話を全面的に信じようとは思いません。

英語の授業とは一見関係なさそうなところで、意外に鋭いところを見ているのか、それとも揶揄なのか、次のようなコメントも印象深い。

  • 拝啓○○様。先生の素敵なファッションを一生忘れません。私は今まで生きてきた18年間ただ流行を追うことがおしゃれだと思っていました。雑誌に載っているから…今人気だから…と信念を持たずに徒に焦る毎日。今思うとつまらないものです。私は現在清々しい気持ちです。ファッションは他の誰のためでもない自分のためにある。自分が気に入ったコーディネートを堂々と着こなし、世間に惑わされないことこそが真の個性だと。私は先生には英語だけではなく、いやむしろ英語以上に大切なことを教わったと思います。この1年間を思い返すと様々な出来事がよみがえります。プリントを忘れた生徒を厳しくも優しくご指導なさる先生…ご自分のネタにひとりで無邪気にニヤニヤなさる先生…目頭が熱くなる思いであります。一年間本当にありがとうございました。かしこ。

そういえば、このところ新しい服って買っていないなあ…。先週、同僚の外国人教師に、”gorgeous jumper”とタートルネックのセーターを褒めてもらったのだが、”I’ve been wearing this for nearly 10 years.”と云うとびっくりしていた。たまに着るクリケットセーターも、大学4年の頃から着ているから20年以上。もっとも、20年着ていれば流行の方がもう一回りくらいしてくれるものだ。止まっている時計が一日2回は正しい時を示すのと似たようなものか。
さあ、いよいよ今シーズンもラストスパート。週明けからはAcrosticの発表・評価。週末には期末(学年末)テストの提出。国公立前期試験も目前。ひさびさに時代劇を見ない週末であった。
本日のBGM: Maybe I’m doing it wrong (Randy Newman)