第2回山口県英語教育フォーラムを終えて (その3)

睡眠を充分にとれたので、体調はかなり回復。違和感の原因は、足の低温やけどからくる不自然な歩き方かもしれない。
授業は飛び石で高2、高2、高1。
まずは、英語に関する勉強道具を家に持って帰る指導から。今年度から、大きな机で引き出しも大きいので、辞書や教材を自分の机の引き出しの中に置いて帰る輩が増えた。これでは、復習も先取りもできないのだから、語学学習の成果が出ないのは当たり前だろう。
授業の中心は、良質のフィクションをしっかりと読むという基本の徹底。評論・論説文は、日本語の関連書籍や資料を読んでいれば、背景知識・スキーマができているので、英語としての語彙があれば、ほとんど読めてしまう。超短編小説、戯曲、詩・韻文などを読む経験知を高めておくことが今風の英語力の欠陥を埋めてくれることだろう。入試ではほとんど求められはしないけれど…。

高2の今月の歌で扱った、Todd Rundgrenの “Lucky Guy” の最後の歌詞、

  • I wish I was that lucky guy.

のthatを見て、名詞を修飾しているとしか考えられないのでは、あまりにお粗末。そこまでの歌詞の「ことば」を何も理解していないも同然。この場合の that は「程度を表す副詞」などと機能にかかわる知識だけをなぞるのではなく、「そんなに、って、どんなに?」と先行文脈からそのthatに収斂させることこそが語彙力であり、文法力。もっとも、第1連の、 “Should he fall, he’ll always get up again.” の文頭のshouldで直ぐに反応できないのは、復習が全く機能していないから。「仮定は疑問の消去形」という合い言葉が空しく教室に響くことでしょう。

上級生がピリッとしないと下級生もぐだぐだです。半分くらいの生徒が、私が与えた書き出しの英文の吟味が不十分で、書き出しとうまくつながらない、クオリティの低いままの英文で課題を提出。 単に、informativeな英文を読んで理解するということがこの授業の目的ではないのですから、与えられた、お膳立てされた英文は一点の疑問の余地もなくなるくらいまで、読み込むしかないのです。まずは、「田尻式語順下敷き」が使いこなせるように、四角化で視覚化、とじかっこ、足跡、という一連の作業を自動化しておくこと。「古文の読解のように、いちいち、品詞分解、構文解析をしているから英文が読めない」のでは決してありません。語彙・構文の知識が定着し、チャンク毎の情報処理が半ば自動化されているから「わざわざ品詞分解をしなくて済む」のです。その証拠に、構文や語彙が自分の守備範囲を超えそうになると、ゆっくり読んでいるではないですか。英語以外の外国語をやってみれば少しはわかることなのでしょうが…。
自戒も込めて言えば、教師もインプット・インテイク・アウトプット、というあまりに単純化された図式をナイーブに信じるのではなく、もっと泥臭く、行きつ戻りつしながら、学習者が自力でできることを増やしていくことが大切でしょう。


帰りのHRで、日曜日のセンタープレの事前指導。1日で終わらせるので、大変です。
放課後は職員会議。先日の、インフルエンザによる臨時休業の補充に関して。年末の計画が根底から覆ってしまいました。まあ、しかたないですね。

山口県英語教育フォーラムの総括も少し進めておこうと思います。まだ、アンケート集計がでていないので、あくまでも私の主観的なものであることをお断りしておきます。

久保野りえ先生の講演では、一部、中3の授業のデモンストレーションをして頂きました。これは、慶應大学の大津由紀雄先生の研究室でおこなった講演を再現してもらいたい、という私のお願いを聞いて頂いたものです。今回の参加者は中学校の先生が少なかったのですが、これを見なかった人は本当にもったいなかったと思います。
中学英語のカリスマといわれる人はたくさんいます。英語のうまい人、授業のうまい人はたくさんいます。久保野先生の指導技術が卓越していることはもちろんです。オーラルイントロダクションの手順一つをとってみても、緻密に構成されていて、無駄がないだけでなく、生徒一人一人の反応を見て、繰り返したり、少し戻ったり、膨らませたりという「のりしろ」がしっかり用意されていて、「聡い」子もそうでない子も、充分に力を発揮し、力をつけていくことができる授業になっています。でも、今回、なんとしても久保野先生を呼びたかったのは、そういった「うまさ」に気をとられていると見過ごしてしまうかも知れない部分で何が大切なのかを感じて欲しかったということがあります。

授業者の人間的魅力はいったん脇に置くとして、「生徒一人一人に配る目線のコントロール」、「生徒一人一人に語りかける声のコントロール」、「話すときと話しを止めるときの間」などの「技術」を持っている先生は数多くいます。これらは話芸を鍛えるために、古典芸能である、講談や落語、漫才などで鍛えることも可能な技術です。でも、久保野先生の「語り」はそういったものと、ちょっと違うのです。
何が違うか?

  • 久保野先生は中学生にわかるレベルの英語で「も」実際に生徒一人一人に語りかけている。

ということです。同じことを日本語で話しかけながらできる人は多くいます。優れた教師であれば、教室で、日本語を話し、生徒一人一人に声を届けることはできるでしょう。ところが、英語になると途端にからだが構えてしまったり、英語らしい音には聞こえるけれども口先だけで発音していたり、妙に早口になったりする人がいます。逆に、英語は驚くほど自然で流暢なしゃべり方なのに、解説などで日本語にシフトした途端にドマドマした話し方になってしまうケースもよく目にします。久保野先生は、英語でも日本語でも自然に語り、話しかけながら上述の技術を使いこなしています。英語も日本語も「自分のことば」になっているからこそできるわけですが、これはできそうでできないことです。
私も、竹内敏晴氏の一連のレッスンを自分の指導技術の中に取り込もうとしてきたので、「自分の声」というものをそれこそ藻掻き苦しみながら見つけてきました。その母語と同じレベルで、英語の自分の声が自分のからだに嘘をつかないようにするのは大変です。どこかに無理が来ると、長続きしません。広島大の松浦先生が言う、中学教師の持つべき英語力のように、「語彙や構文はTOECの450点レベルであっても、それで50分間、無理なくしゃべることができる」力の中には、この久保野先生のように、自分の声で生徒に語りかける力(あるいは力の抜き方) も含まれるような気がしています。
生徒の側から考えると、「先生が話している英語を一生懸命に聞き取ろう」とする1年間の授業と、「先生が自分に語りかけてくることばが今は英語」という1年間の授業とでは、随分違うだろうと思うのです。最新の指導理論に触れることも大切でしょう。研究成果、新たな知見を取り入れることにより、それまで5年、10年かかって習得していた指導技術が2,3年で身に付くということはあるでしょう。でも、今回の久保野先生を見て、聞いて、体験して、そういう指導技術を発揮するためには、英語が自分の「声」になっていることが必要なのだという思いを本当に強くしました。
今回の講演での久保野先生のことばの端々に、恩師である若林俊輔先生のことばが重なり、司会をしている私は涙をこらえるのに必死でした。英語の授業はことばの授業である、ということをまさに体現した講演とデモだったと思います。
このフォーラムで久保野先生の講演を聞き、デモ授業に参加し、何かを感じた方のうち一人でも多くの人が、今一度、H. E. Palmerの著作に触れてくれることを期待しています。

週末は課外授業と模試監督なので、本業はお預けです。辛い…。

本日のBGM: Loose Tongue (Neil Finn)