My Baseball

Baseball is caring. Player and fan alike must care, or there is no game. If there's no game, there's no pennant race and no World Series. And for all any of us know there might soon be no nation at all.
The caring is whole and constant, whether warranted or hopeless, tender or angry, ribald or relevant. From the first pitch to the last out caring continues. (Sports Illustrated, October 8, 1956)

こんなリズムで、作家のWilliam Saroyanがスポーツ雑誌の『スポーツ・イラストレイテッド』に寄稿した3ページ足らずの文章は始まっている。この話は1993年にCrescent Booksから単行本化されたBaseball という野球に関するエッセイ集の最後を飾っているのだが、つい最近までサロイヤンの文章が収録されていることに気が付かなかった。本は最後まで読むものですね。1956年と言えば、ワールドシリーズはヤンキース対ドジャース(LA移籍前でブルックリンを本拠地にしていた)のニューヨーク対決であった。
1954年以降、約40年にわたって掲載された数々のエッセイから感じ取れるのは「野球を前にすれば、自分に嘘はつけない」とでもいえるアメリカ人の行動様式・思考様式で、その意味では極めて相応しいエッセイで締めくくったと言えるかもしれない。
「登場人物は何げない男女であるが、現代という太古の中に生きているといった感じである」とサロイヤンの作品を評したのは熱烈なファンであり訳者でもあった小島信夫であった。
サロイヤンの物語の登場人物が備えている、「善良で」「人間的」な価値観・資質、私のような英語教師を魅了してきたアメリカの「魂」は今や風前の灯火なのだろうか。
2006年3月21日。日本代表チームはWBCで優勝を果たした。キューバ対日本の決勝戦の開会セレモニーでアメリカ国歌が流れた時、極めて大きな違和感に襲われた。この大会でのアメリカという国(民)の在りように関しては、内田樹氏が自身のブログで書かれていることに共感を覚える。(「アメリカの凋落」http://blog.tatsuru.com/archives/001612.php
たかが野球、されど野球である。野球教の信者、無神論者はもちろん、殉教者にさえ必要なのはプロパガンダでもモダリティーでもなく健全なユーモアなのかもしれない。
サロイヤンは自分のエッセイをこう結んでいる。
Well, is it a game? Is that all it is? So the Dodgers win it again in 1956. So the Yanks win. What good does that do the nation? What good does that do the world?
A little good. Quite a little.
And there's always next year, too.
イチローと大塚はアリゾナへ、日本チームは成田へと帰っていった。次の「喜劇」の幕が開くのは3年後のはずである。