不幸な小説

フィクションを教材として扱うとしても、授業の最後には評価がつきまとう。ただ、テストによってフィクションの内容理解を見ようという時に、昨今のコミュニケーション能力測定としてのテスティングの手法は残念ながらあまり役に立たない。
『STEP英語情報』という英検の機関誌のような雑誌がある。英検だけでは賄っていけないためか、英語教師や英語教育学を担当している大学の先生を執筆者として毎号特集が組まれている。その2006年1,2月号は「Special 対談 大学入試英語改革」(関西大学 靜哲人・明治学園中学高校 井ノ森高詩)なのだが、そこで次のような発言が見られた。
「長文問題での小説の出題は何とかしていただきたいですね。やはり難しいですよ。私たちから見ても難しいですからね。背景を読み取るのが特に難しいです。あのような問題に向けて高校生に準備させるのに、何をさせたらよいかが不明確です。『ペーパーバックをたくさん読ませればよいのか?』という話になりますよね。高校を卒業する18歳の子どもたちに求める英語力を測る問題ではないと思います。」(井ノ森高詩氏の発言)
この特集自体が、入試問題の実例を全く挙げずに印象批評で終始しているのが大問題なのだが、井ノ森氏は恐らく九州大学の読解問題などを念頭に置いているのだろう。フィクションは難しすぎるというわけだが、「なぜ難しいのか」に対する考察は置き去りで、「18歳には無理」というのはいかがなものだろうか。「では、何歳ならいいのか?」という問いには誰も答えられないだろう。読み手の持つ内容スキーマに頼ることができない時には、本当の意味でのbottom-upのプロセスで読解をしていかざるを得ないのであり、その意味で小説の読解は重要な意味を持つ。常に、部分の理解から全体を貫く統一文脈の仮説を立て、検証しながら、自らの理解をすりあわせて進んでいく。アカデミックな文章、ジャーナリスティックな文章とは違って、小説では展開に飛躍があったり、行きつ戻りつしたり、という極めて人間の普段の思考のプロセスに近い文章となり、論理だけでは解決しない。だが、それこそ文化や知性であり、大学入試は知性の指標となる学力を図りたいのではないのか。
小説は短ければ背景を読み取るまでに時間がかかるというのであれば、「そこまでのあらすじ」や「登場人物相関図」を冒頭に示せばすむことであり、「小説」というジャンルそのものを排除するのは筋違いであろう。普段の授業でも短編小説を投げ込みで読ませたりする実践はいくらでも可能である。国語の授業で長編を読む余裕がないからと言って、教科書でフィクションを扱わないかと問えば、ほぼ全ての教育関係者が「否」と答えるだろう。アメリカで高校卒業と同等の資格として用いられるGEDの読解テスト(L1での高校レベル最低限の読解力と考えてよいだろう)では、小説やドラマ(戯曲)などを読むことがきちんと位置づけられている。
外国語として英語を読む場合にはノンフィクションしか適していないというのは思いこみに過ぎない。
ことほど左様に、入試問題批判は印象批評に陥る危険性があるのである。

追記:参考までに、近年の九州大学の出題をリンクしておく。(PDFファイル)
http://hiw.oo.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/05/ky1-11p.pdf
http://hiw.oo.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/03/ky1-11p.pdf
http://hiw.oo.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/02/ky1-11p.pdf