紋切り型を超えて(その3)

学校英語は役に立たない、というときに、「役に立つ英語を教えるのではなく、『学び』そのもののとらえ方を変えることで、英語教育にも変化が生まれ、『教室が学びの場になる』」という考え方がある。
ジーン・レイブ、エティエンヌ・ウェンガー著『状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加』(産業図書、1993年;佐伯胖氏による翻訳。原書は1991年刊)により、『正統的周辺参加』という概念が広く知られるところとなった。
この概念は英語教育界でも折に触れ取り上げられ、『英語教育2003年5月号』では、朝尾幸次郎氏(立命館大学教授)により、「『教えない』という仕事もある!?」という小論で3ページ近くを割き「学び」の質的転換を訴えている。
朝尾氏は噺家の師匠と前座の関係を例に出して、「徒弟的学び方」においては、「状況」と「正統的周辺参加」が鍵であるというレイブ/ウェンガーの考え方を引き、さらに料理人の例を挙げ、「責任の範囲を徐々に広げながら意味のある仕事に参加していく」という正統的周辺参加を説明している。徒弟的学びの場では「今自分は新しい価値を作り出す、意味のある実践に参加しており、それが喜びなのだ」から、「なぜ、それを学ぶのか?」という問い・疑問は起こりようがないという。レイブ/ウェンガーに加えて、セレスタン・フレネの「学級通信」、ウィルガ・リバーズの「自己表現」の例を挙げ、英語教育において、実践的共同体の仲立ちとしての教師、という役割を朝尾氏は強調している。ずっと気にはなっていたのだが、今回読み返してみて、何に対して違和感を感じていたかが少し見えてきた。
徒弟的な学びにおける師匠と実践共同体の仲立ちとしての教師は異なるものであるのに、それを単純に結びつけていることからくる違和感である。上述の翻訳書のあとがきで、佐伯氏は「実際の教師が子供にとっての学びの『師』(親方、熟練者)となるのか、それとも知的探求の『先輩』(古参者)、あるいは実践を『ともにする同輩(near-peers)』となるか、それともたんなる無関係的存在にすぎない者となるかは,子ども自身がどのような社会的関係づくりの実践に関与して生きているかに依存する」(p.186)と明確に触れている。
徒弟制度の場合には、学習者はまず「新しい価値を生み出す、文化的実践活動」の状況に身をおくことを自ら選択しているのである。それに対して、学校英語では、学習者は「英語を運用することによりどんな価値が生み出され、どのような文化を自らが担うのか」がわからないからこそ、責任の範囲がいつまでも広がらず、参加する仕事に意味を見いだせないのではないのか?
例えば、「学級通信」。なぜ、日本語ではなく英語(外国語)で通信を発行するのか?国語教育や担任の教室経営以外のどのような価値が生み出されているのか?
例えば、「メール交流」。なぜ、その相手とメールのやりとりをするのか?確かに「メール交流」という実践は共同作業により成立している。では、そのメール交流によって、どのような新たな価値が生み出されているのか?
やはり、「徒弟的学び」からは洞察は得られるが、比喩で終わらせないためには、まだ超えねばならないハードルが多々ある気がする。噺家を志す少年(少女?)」は、師匠に憧れ、徒弟的学びを経て「一人前の噺家」になる。エンターテナーとして、観衆を楽しませる。それによって、噺家としての評価が厳然として存在する。対して、英語学習者はどうだろう、「熟達した英語運用者であり学習者としてのモデル」を英語教師に見て取る学習者は多くないだろう。学年制、学級制、さらには習熟度別クラス編成などがなされている現状では、英語を用いることにより社会的実践をする、といわれても、『社会的』という言葉がいったい何を意味するかがよく見えてこない。
中学校小規模校での達人教師による成功事例を鑑みるときに、確かに「英語教育徒弟制への回帰」、というアイデアやプランは世間の賛同を得られるかもしれない、という想いがある。もし賛同が得られるとすれば、師匠は誰か?という部分にもっと世間の理解を求める必要がある。共同体の師匠は、外国語として英語を学んだことのない、いわゆるネイティブスピーカーではないはずである。共同体を英語教室に成立させるには、まず師匠たる英語教師を、広く社会で受け入れてもらわねばならない。そのためには、まず師匠に相応しい腕を磨く必要がある。