Do you want an instant remedy or a miracle cure?

昨日は連休の谷間。
現在勤務している高校は、こういうところに行事を入れず、しっかり授業を確保しているのだが、生徒の心の準備は確保してくれない。高2は案の定、曲を流している間、ずっとおしゃべりし続けている二人組がいたので説教。歌詞の確定と主題のカギとなる設定の説明をし、次回の課題を配布してその後は自習。その二人組を含むグループは午後、廊下で私の顔を見るやいなや走って教室へ逃げていった。やれやれ。もう一つのクラスでは、授業が始まってから少しして、いきなりキャンディーをなめ始めた生徒がいたので指名。「授業中にもの食うのは止めろ。すぐに出せ」と注意したら、「のど飴ですから」と平然。キレましたね流石に。どちらのクラスでも、英語が出来ない生徒ではなく、授業での活動で要求されているレベルを甘く見ているというか、高をくくっている生徒がこういう行動をとりがちである。とりわけ、英語の歌は、空所補充などができれば、その後の主題に迫るタスクでは適当に、あるいは「おそらく教師が望むように」感想を書いて済ませる「良くできた生徒」が必ずいる。こういった、授業で自分の演じる「良き生徒役」のお行儀の良さを何とか壊せないだろうか(もっとも、授業中の飲食などのマナー違反は論外である)。
オーラルイントロダクションや、概要把握などの「教師が意味を教えてくれて」「意味を理解すれば終了する活動」や、簡単ないわゆる「自己表現」やリプロダクションなど、「今現在の自分の英語力の守備範囲内でやりくりできる活動」だけをやっていてはダメだということに気付かせたいものだ。Scaffoldingなどと最近はよくいうようになったが、高校生にもなって、教師がお膳立てばっかりする授業はおもしろいですか?高校で扱う教科書が、「人間力」とか「感性」「民度」などが問われる素材を扱わなくなり、素材文と汗を流して格闘することのなくなった現在、生徒はパフォーマンスを前面に出した、「プレゼンテーション」「ディベート」などのオーラル系の活動、自分の雑感や意見を好きなように書く垂れ流し系のライティングが英語力向上に有効な英語の授業だと思っているような節がある。これに対して予備校・塾などでの授業では公式・パターン・マニュアル化された問題解法が中心となるのであろう、「導入されたことがすぐに自分で理解出来、答えがすぐにわかる」という錯覚を高校の授業に持ち込もうとする者もいる。高3のライティングで「パラグラフ」の概念についてひととおり学んだばかりなのだが、1週間くらいうわっつらをなでただけで「トピックセンテンス」に相応しい文とそうでない文との区別がすぐにできるわけがないのだが、「ここまでの疑問点を書け」という項目には、次々と質問が…。概要把握を要求される活動では「あいまいさへの耐性」が養われているはずなのに、概念学習では辛抱出来ないらしい。テーマ、トピック、主題が変わればそれにともなって毎回、うんうんうなってトピックセンテンスを作り上げていくからこそ、ライティング力が向上し、その結果英語の力も骨太なものになっていくのである。
スポーツでも芸術でも、華道、茶道でも、何かきちんと「稽古」をやってきた人間なら分かることなのだろうが、昨今はおしなべて「稽古」での達成感を急ぎすぎている気がする。授業のどの活動も、集中力が切れないような短いチャンクで構成され、次々とメニューが変わり、清涼剤、スパイスやカンフル剤とでもいうのか、見栄えのするイベント的なものばかりになってはいまいか?授業はもっと、泥臭い要素に満ち満ちていていいものだろう。
私の授業での歌の位置づけは清涼剤では決してない。教科書が指定され一定の進度や主題がある以上、それほど逸脱はできないが、授業で使う歌では流行とは無関係に、良質のフィクションとして消化吸収する価値のあるものを送り続けたい。何回も聞いて、何回も歌って、すこしずつ理解が広がり、しばらくして自分の人間としての経験値が高まったときに、新たな「気づき」がある。そういう素材が今の教科書にどのくらい含まれているだろうか?私が求めているのは金の斧でも銀の斧でもないのである。