『誰も教えてくれなかった英文解釈のテクニック』


倉谷直臣著、朝日イブニングニュース社1981年刊。教材シリーズ第5弾。
『朝日ウイークリー』の連載をまとめ加筆訂正したもの。はしがきにはこうある。「こんなに熱心に英語に対していながら、そしてまた能力的にも決して劣っていないわが同胞が、なぜここの中国人の英語力に追っつけないのか?」ここまではよくある話。次からが倉谷節。「思うに、日本人の(とくに教育にあたる者の)精神主義が禍となっているのだろう。枝葉末節のテクニックを軽んじる、ということだ。」「もっとプラクティカルに、枝葉末節をひとつずつおさえてゆくこと、テクニックの習得に努めることが、肝要だと思う。また、それをささえ、導く教育者の姿勢が切望される。」
連載が始まったのが1979年。私が購入したのは高校3年の夏休み。今も、黄ばんでしみだらけのこの本が書棚にあります。
その後、83年に『続・誰も…』が出版。そして、今はどちらも絶版である。研究社から同著者による『解釈から訳出へ 英語を正しく読む50講』(1992年)という学習参考書が出ており、それがもっとも近いイメージであろうか。(これさえも絶版寸前である)
本編の100語程度の英文を、文化的背景などを抜きにして、文字通り枝葉末節までとことんこだわって読み、訳出する内容も頗るおもしろかったが、さらに、付録的なQ&Aでの明快な解説が積み上げた煉瓦の間をしっかりと埋めていくようで、やり遂げるのに苦労苦痛は全く感じなかった。(「掘るのはどっち---イモ、畑?」「my wifeと結婚?」「満員なのはバスか乗客か?」「Help!」など今読んでも面白い)
自然な訳出を目指して、英語の「ことば」に徹底的にこだわることで、英語らしさに触れられる希有な参考書だったと思う。
教師になった今でも、高校3年生に入試問題を使って読解を教えるときは、この姿勢を忘れないようにしている。こういうと、「受験英語=訳読=必要悪」というような印象を持たれがちだが、「意味の理解=英語学習=英語習得」ではないのだから、スピードや効率だけを持ち出して、精読を批判するのはあたらないだろう。私の読解授業のスタイルは、普通の学校の授業とも予備校の講義とも異なるようで、昨年のアンケートには「今まであまり体験したことのない授業形式で最初は戸惑いましたが、楽しかったし自分の力になったと思うのでよかったと思います」「英語を新しい視点で見れたような気がしてとてもよかったです」「ただ単語を調べそれを当てはめるだけの読解にずっと疑問を持っていました。しかし先生の授業は生きた英語、活かせる英語が本当に学べました。本心からそう思っています」というようなコメントが寄せられた。最後の生徒は、精読が単なる文法訳読とは違うことがわかっているのがうれしかった。以前の学校でも似たようなもので「多分、今までにない授業です。けど、英文を読むってこういうことなんだってすごく思う。訳をつければいいだけの英語学習を止めることを知った」「やはり根本がわかっていないと速読はできないと思う。速読というより、速い精読を目指すためには欠かせない授業だと思います」「学校の授業や予備校でも教えてくれないことが多いので非常に役に立ちました」というようなコメントだった。
私のスタイルの根底に、『誰も…』の影響が確実に残っている。(決して進歩していないわけではないですよ)