「昔のピンナップはみんな壁から破がして捨ててしまった」

午前中は、冬期課外補習の最終コマ。
助動詞の番付表の、大関 (have) と小結 (be)。
生徒の反応を見ていて、

  • いわゆる完了形(「完了相」というラベルでも結構です)といわゆる受身形(「受動態」でもいいですよ)がわからないのは、過去分詞 (私は「-ed/en形」というラベルを貼っています) そのもののイメージが希薄であること、もとの動詞そのものの意味をしっかりと捉えていないことにある

ということは実感できたが、さてさて、今日の講義から生徒が自力でどう歩みを進められるか、年明けの授業に期待。

お昼を挟んで、午後2時過ぎから「新指導要領勉強会」。学級文庫のあるホームルーム教室にて。
山口県出身である広島大の柳瀬陽介氏(「英語教育の哲学的探究」主宰)とやまねひろやす氏(「Namely ELT」主宰)にご足労願いました。ありがとうございます。
みなさん文科省からダウンロードした資料を用意されていて、私の方からは、英国のMFL Key Stage 3のコピーを配布。他には、1990年のThreshold level の翻訳、過去の改訂時の『英語教育』(大修館)、『現代英語教育』(研究社)の特集号、参考となる英語教育関連の専門書などを用意。
勉強会は高校の「指導要領(案)」に基づき、総則から専門学科の「英語」まで、さらには既に公示され文科省からのガイドブックも出ている中学校の指導要領の記述との比較という具合に、コメント、疑義、解釈、意見、推量などなど気がつけば、3時間経過。辺りは闇が拡がり始め、学校には既に誰も居りませんでした。
最大の収穫は、私が指導要領に求めているのは、「個人の学びの保証」「能力記述と発達段階の精査」という要素が強いのだという自覚が得られたということ。柳瀬先生から、コミュニケーション能力「論」というか、「観」を聞いて、今回の指導要領(案)に示された「コミュニケーション」というのは非常に狭い意味で用いられているように感じられました。私に「社会性」が希薄だということも…。

  • 何年かごとに同じような言説が繰り返されているが、その依拠する学説や差異は明らかなにされないままである。日本の英語教育の「学説史」とでもいうものを精査する必要がある。
  • 社会学的な観点から、哲学的な観点から日本の英語教育について語ってもらえるような外の知のフィールドからのサポーターを日本の英語教育界は作ってこなかったのではないか、また、日本の英語教育界から例えば、昔の英学・英文学でいう福原麟太郎氏のような知識人で影響力のある人物を輩出出来ていないのではないか。

などの言葉が印象に残りました。
勉強会のあとは懇親会兼忘年会。
駅前のお店に座を移す。
音楽、スポーツ、格闘技、私の娘の話と発展飛躍脱線しながら、あっというまの2時間半。
年の瀬の貴重な午後をありがとうございました。
年明け、第二弾でさらに自分の考えを深め、疑問点をまとめます。パブリックコメントでは主張の要点と疑義を、このブログではその補足と発展した記述を載せたいと思います。

本日のBGM: New Age (佐野元春)