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自分の本業も佳境なのだが、これからのシーズン目が離せないのが、フィギュア・スケート。
過日のエントリーでも取り上げた、ソニアさんから、具体的な動きを始めたとのメールが来たので、ご紹介。いってみれば競技の指導者側から、その競技を統括する機関への政策提言ですね (全編英語で、かなり高度に専門的ですので悪しからず)。
“Coach Proposals for the Improvement of IJS”

普段見ることの少ない、ルールの細かい規定などを言葉で確認することで、個々の技術に関してより深い理解が得られるという副産物も。

スポーツという、今ではそのマネジメントに「経済」や「政治」が切っても切れない分野で、こういう「人の繋がり」で動きを起こせる、ということに心を揺すぶられる思いである。

英語教育の世界はどうだろうか?
web上で良質の情報を発信している浅野博氏の最近の「英語教育批評」はもうお読みになっただろうか?(http://kyoiku.jirco.jp/archives/2729)
私も「学習指導要領」そのものの法的拘束力をなくす、という考えに100%賛同する、とわざわざ書き残しておこうと思う。この記事以前の発言にも、傾聴に値するものが多く、日本の英語教育を支えてきた先哲・先達が「今風」「今様」の英語教育をどう評価しているかという声に考えさせられることが多い。

紙媒体のメディアでは、先日のこのブログのエントリーでも引いた大修館の『英語教育』 (2009年10月増刊号) の伊村元道氏の「英語教育日誌」でも、重要な問いかけをしている。

  • 語学教育研究所や筑波大学附属中学校・高校その他ではこれまでもオーラル・メソッド、つまり「英語で英語」を教え、その普及に努めてきた。それを21世紀には全国的に広めようというなら、なぜ文科省はそういうところに補助金を出すとか、附属の授業を見に行け、語研の講習会に参加しろ、くらいのことをいわないのだろうか。
  • オーラル・メソッドは英語を英語で教えるスキルである。スキルにはタネも仕掛けもある。そのコツさえ覚えれば、たとえ英会話ペラペラの教師でなくても、50分の授業の大半を英語でやるくらいのことはできる。現に語研では先輩が後輩にその極意を伝授して、毎年何人かが巣立っている。全国とか一斉に、という掛け声はやめて、少しずつそういう学校を増やしていくほうがいい。派手な花火を打ち上げているだけでは、21世紀の英語教育も危うい。(以上、p.82より抜粋)

現在、文科省は伝達講習会として各指導主事に「英語は英語で」がお題目だけに終わらぬよう、「現実的な」指導方法を伝授していることだろうが、その前に指導要領そのものの「法的拘束力」をはずし、各自治体ならその自治体の自主的な指導をこそ文科省へと報告させてはどうなのか。
「英語力」というものの記述が段階的・複層的にならざるを得ない以上、到達度の設定も段階的・複層的にならざるを得ないのは自明だろう。「最低線」が誰にとっての最低線なのか、ハードルが高いのか低いのか、はそれぞれの教室の生徒・教師といった変数で変わってくるのだから、到達目標を一律に、一元化して示そうという努力は徒労に近いものとなるだろう。グレード化、バンドスケール化など、欧米の事例をただ輸入するのではなく、日本の英語教育の専門家の英知を結集することを期待する。

国体参加選手の壮行会で短縮授業。
高1の授業は、ほぼ雑談のみでチャイム。だが、重要なメッセージも込めておいた。学習者としての「艶」、「オーラ」について。世界と自分とが地続きであるという感性について。
高3は卑近な大学入試問題演習。その中では良心を感じることの出来る素材を利用。疑問文と接続詞。
高2は「40分短縮授業」の英訳スモールトークから。
なぜ学校にいる誰もが「40分短縮授業」を「10分間」の授業だとは思わないのか?という問いかけ。
「短縮」というからには、 もとになる、まとまった長さを持つものを、より短くするのだ、という考え方を確認することがはじめの一歩。「基準」「変化」「比較」という日本語では曖昧にしている部分を面倒くさがらずに言葉で確かめる作業。
その後は新たなパートをチャンク毎に目で追いながらの聞き取り。Listening comprehensionの力をつけるというよりは、「チャンクでの意味の処理が出来ますか?」という自問自答だと思えばよいのではないか。
放課後は職員会議。
国体関連の工具類の発送で宅配便の営業所まで持ち込み。梱包も手伝ってもらい感謝。

  • 高橋源一郎 『13日で「名文」を書けるようになる方法』 (朝日新聞出版、2009年)

読了。結構時間をかけた方だと思う。内容といい展開といい、加藤典洋の『言語表現法講義』 (岩波書店、1996年) を思い浮かべた。さもありなん。私が知らなかっただけで、高橋氏は明治学院大の国際学部教授で「言語表現法」の授業を担当していたのだった。1996年から2009年へ。確かにリレーのバトンは渡されたように思う。荒川洋治の「太宰賞」のコメント時と同じく、一行も引用したくない気分ので、是非立ち読みででも、どうぞ。読んだら買ってしまうと思うけれど…。
今時の高校生の多くは、加藤氏の『…表現法講義』を読むのにも苦労するだろうから、まずはこの『13日間…』から入ってみて、その後、読み比べてみるといいのではないか。決して「大学入試の小論文対策」などで読むことのないよう切に望む。そんなお膳立て、お約束はH口氏やD口氏に任せておけばいい。
果たして、英語教師は高橋氏のこの本を読むだろうか?そもそも加藤氏の『…表現法講義』は英語教師に読まれているのだろうか?

本日のBGM: ACT (Wrong Scale)