久々に入試問題を取り上げたら、少しは反応、反響がありました。アクセス数が異様な動きでしたから。
前々回で取り上げた東大の和文英訳は、鶴見俊輔の相当初期の文章を使ってはいますが、下線部の前後をちゃんと読めば、やはりそこには「鶴見み」とでも言えるものが感じられるわけです。ネットでも公開されてきた各種業者の解答例では、それが殆ど感じられないのがもどかしいところですね。
私の英訳例も、なんか変なところで取り上げられて奇妙な解説をされていた模様。
英訳の適否を論じることも大事だけれど、これを機に肝心の鶴見俊輔の著作や文章を読んでおいて欲しいと切に願います。
私の英訳例では、 “their weakness or awkwardness” って書いていましたけどこれって、文の形に解凍したら “they are weak or awkward” とか、語義を抽出したら、 “they repeatedly show something weak in them or something awkward about them” みたいな感じになるでしょ?
で、そういった文脈に応じたawkwardの語義は本当に実感できていますかね?『ランダムハウス英和』では、awkwardにこんな語義(訳語)を示してくれています。
見方を少し変えて、たとえば、 “self-esteem” ということば。こんな定義と用例です(OALD より)。
a feeling of being happy with your own character and abilities
- to have high/low self-esteem
ここでhigh or low でどちらなのかと言えば、それはもう、people with low self-esteem の人の言動についてのhigh過ぎる人の言動が焦点となりますね。
だから私は、原文での「われわれ」の処理を重視したのでした。
流行りの物言いなら ”one team” として、主力となったり、リーダーシップを発揮したり、organizeやinspireしたりするにも「ほど」があるだろうと。
曽田正人先生の名作、『昴』の第61話のセリフなら、「なんでできないかな〜!?」とカンパニーのみんなに言っちゃうアレですよ。
・じれったい
・かたわらいたい
先程の二つに加えて、例えばこういった資質を持つ人、言動をする人に対する不寛容さの現れ、とそのことへの戒め、諫めを踏まえて、「われわれ」「自分たち」として連なり、向こうの「世界」とどう対峙するのか?というのが、私の感じた「鶴見み」です。
・おどおど
・まごまご
・とろくさい
で、さっきの話の続きで、Moonの第7話だと、カティア・ロールのセリフ、
「なんで
そんなことが
できないの?」
のところですね。
でも、昴だってただ傲慢なわけじゃなくて傷ついてるんですよね。第8話の最後の、
あんなの
ぜんぜん
ちがうのにっ。なんでみんな
わかんないの!
のフルひらがなのセリフなんか、もう最高ですよ、曽田先生!
で、さらに、「で」で、振り出しに戻って、東大の出題の素材文。
この「鶴見み」の源泉とも言える話しを、「議論」とか「論理」とかに矮小化している時点で百万年早いと思いますよ。
でも、そんな百万年分をも受け入れて連なることこそが、「鶴見み」ですから。
前回の大阪大学の英文和訳に関しては、せっかく「補足」としてインタビュー動画を貼り付けたのに、殆ど見てもらえていないようで、とっても残念です。当該箇所だけ書き起こしておきます。話し言葉なので、文法的な整合性が崩れているところ(疑問詞相当のwhatの名詞節の中での語順とか、終盤の what の名詞節の中で再度that を繰り返すところとか)、も散見されますが、むしろ、そういうところが、この人の頭の中にある「ことばの種」「アイデアの端緒」を知るヒントにもなろうかと思います。
There’s some theories about what is it about being outdoors that makes us feel so a lot I’ve been and when you look at the brain there’s a thing called attention restoration theory which is there’s part of the brain when we’re working on a problem that’s really really difficult, like a math problem or a mechanical problem, it really taxes our brain and we can be drained from that because we’re so laser-focused on that problem. And yet when we out in nature, we’re not focusing on solving a particular problem, but we’re out enjoying the colors, enjoying the textures, enjoying the wind and enjoying the flowers. At that point brain has an opportunity to rest and to restore and rejuvenate, so in that capacity, we feel really relaxed, and that’s part of what a neuroscientist, if they are thinking about and doing studies, ought to show that in that state we are fully relaxed and that may be part of why we feel so alive when we’re in nature.
前回取り上げた大阪大の出題文で、下線部より後ろの、 “... , which call on ...” の関係代名詞の非制限用法が”..., requiring ...” とパラレルだという解釈は慎重に扱うべきだと思っています。平行(並行)だから同じ構造や論理とは限りませんから。
呼応する動詞の形が call ですから主語は先行文脈の中から複数扱いできるものを抽出することになります。
では、単にここで列挙される「自然の光景」か?私は、ここでpatternsにorと続くところで、自分のことばのリズムと上手く合わなくて足踏みしました。ここは、enjoy observing patterns に続くor での複数要素を繰り返す、複数回のenjoyingを意味上の主語としているのだろうというのが私の解釈です。
- そんな都合の良い意味上の主語の「抽出」が許されるのか?
という人もいようかと思います。
では、そういう方は、この “enjoy observing patterns or ...” の or をどう処理してるんだろう?と思うわけですね。そちらの処理の方が私にとっては興味関心が高かったのですが、その部分の解釈は、多くの方にとって、あまり注意は要求されなかったということなのでしょうか。
そんなことをあれこれ考えていたら、インタビュー動画を発見したということで、アップした次第。
- enjoy observing patterns に続くor での複数要素を繰り返す、複数回のenjoyingを意味上の主語としている。
と言ったことが少しは分かってもらえるかなと。非制限用法でも、既出の名詞句を先行詞とするのではなく、「ことがら」を抽出することは多々あるというのが私の意図です。
本日のBGM: You're foolin' nobody (Roger Nichols & the small Circle of Friends)